ある日曜日のこと、ショッピングモール内の書店で、在庫確認端末をいじっておりました。
欲しい本が在庫として問屋さんにあれば、取り寄せてもらえるのです。
それにしても、この端末、操作が面倒なうえに、漢字変換がものすごく鈍いのです。
使っている人は分かると思うのですが、大概第一変換はのけ反るような漢字を出してきます。
と、書店奥からギャーという赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。
まだお昼になったばかりで、店内はわりと空いていたのですが、みると1歳になるかならないかの子どもを抱いた父親が、泣きわめく子どもを抱いています。
子どもだから仕方ないかと思い、気にも留めずに端末に向っていたのですが、赤ん坊の泣き声はずっと続き、いっこうに泣き止む気配がありません。
みれば、そばでスマホをいじっていた母親は、ベビーカーを押しながら父親に近寄り、あやすわけでもなく、泣き喚く子どもをそのままにして話し込んでいます。
赤の他人が見ても、子どもは何かを伝えたくて体をよじりながら泣いているのです。
原因が、おしめが濡れている(最近の紙おむつは濡れても一向に不快にはならないらしいですが)のか、お腹がすいたのか、喉が渇いたのか、単にお父さんに抱かれていたくないのか、その中身まではわかりませんが、とにかく「何とかしてくれ」と、両親に向って全身で訴えているわけです。
これはどの育児書にでも書いてあることですが、このように泣いて自分の欲求を伝え、それを親が満たしてくれるということで、赤ん坊は対人コミュニケーションの第一歩を踏み出すわけです。
もし、泣いて意思を示しているのに周囲の大人が無反応を続けると、赤ん坊は泣いても要求が通らないことを学習してしまい、しまいには泣かなくなってしまうのだそうです。
それは大人の側からみたら「しつけ」ともとれるのですが、子どもの成長にとってはかなりのダメージになります。
私は泣き喚く赤ん坊は自然だと思っています。
だから、いくら暑かったり他に理由があったりして大人がイライラしていたとしても、大抵の場所においては子どもを泣かせるなと文句を言う方がおかしいと思います。
そういう人は、自然のなかで、たとえば朝にセミの鳴き声や鳥のさえずりとか、夜に川のせせらぎがうるさいと文句を言っている人と同じで、ひょっとしたら自分の方に何らかの問題があるのではないかと疑った方が良いのかもしれません。
(コンサート中とか、試合中のテニスコートとか、静粛を要求される場面は別ですよ)
赤ちゃんは、泣く以外に自分の欲求を伝えて満たしてもらうことはできません。
いや、正確にいえば言語で伝えることができないので、他に手段を持っていないのです。
だからこそ、「あーどうしたのかな」と言って、大人がケアする必要があるわけです。
それを、スマホに熱中したり、笑って大人同士で談笑したりして、子どもが書店内で泣くに任せているというのは、どうなんだろうと感じてしまいました。
少なくとも、どうしたのかなと、子どもと向き合ってあげた方が良いし、他のお客さんに迷惑だから通路に出るとか、モール内にあるベビールームへ行くとかした方がもっと良いのではないでしょうか。
もちろん、書店を出たところでモールの中ですから、声が響いてしまうのは致し方ありません。
でも、子どもの能力をあまり低く見積もってはいけないと思うのです。
いくら言葉の喋れない乳児であっても、周囲を観察する力は驚くほどあります。
公共の場所で、自分が泣き喚くことによって、両親が店から出なくてはならなくなったということくらいは、状況を理解できるのです。
それ以前に、両親が自分をどこかへ連れて行って、しかるべきケアをしてもらったという経験が、親子の愛情交流のベースになるはずですし、もう少し大きくなってゆくと、自分の泣き声が周囲の迷惑になっているのだなと感じ取ることが、社会性の萌芽につながってゆきます。
昔はこういう役割を担う人は、両親とは限りませんでした。
それこそ、通りがかりの見知らぬ他人が、「あら、どうしたの」と赤ちゃんに声をかけても不審には思われませんでした。
今では「声かけ事案」なんていわれかねないから、自分を含め誰もが知らんふりです。
「みんなで子育て」なんて掛け声だけで、こうして子どもを観察するだけで怪しまれる時代ですから。
私も教育学を学んでいなかったら、「ああ、子どもが泣いているな」くらいで、あとは意識を切ったのかもしれません。
そんなことを考えている間にも、目の前の親は自分たちに夢中で、赤ん坊とのコミュニケーションを積極的にとろうとする様子がいっこうにみられないのでした。
「たまたまだといいけれど」と思いながら、端末操作を中断して、書店から退散しました。
あの場所が書店ではなく図書館だったら、いや、レストランだったらどうするのだろう?などと考えながら。