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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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旧東海道点描 吉田宿~御油宿

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今本編で登場している関の小万の墓があるという賢養院(豊橋市関屋町184番地)。
旧東海道の西惣門から50mほど東にあります。
2説あるうち、小万が浜松で仇を討ち、吉田宿にある小間物屋の女将に納まったという話の方ですね。
これは推測なのですが、複数の似た話が合わさって、現在の言い伝えになっているのではないでしょうか。
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豊橋の南詰よりやや下流にある旧吉田大橋の碑
これも本編で説明しましたが、鎌倉時代、豊川に架けられた橋は今橋と呼ばれていました。
江戸時代に吉田大橋になり、明治以降今の豊橋という名前になりました。
さらに時代がくだって、昭和になると上流側の国道1号線に、現在の吉田大橋が架けられました。
ということで、豊橋の名前は吉田の方がなじみ深いのだと思われます。
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温故知新書という国語辞典があったのをご存知でしょうか。
室町後期、いろは順が一般的な時代に、なんと50音順で並んでいて、最古の五十音順辞典と呼ばれています。
昨日の読書感想ではありませんが、「故きを温める」にしても、知らない事柄には謙虚に接し、知っているからといって、自分の持ち物のように勘違いして奢り高ぶらないという、センスがいるんだよなぁと思うのでした。

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薬物依存症者は、テレビに映る白い粉状の物体を見ただけで、フラッシュバックを起こすといいますが、アルコール依存症者は酒の看板を見たらどうなるのでしょう?
もちろん、お酒が悪いわけではありませんが、このようにビンが傾いていると、いかにも液体を注ぐ音が聞こえてきそうです。
そんなこと言ったら、摂食障害の人が食べ物のコマーシャル見たらどうなんだとか、きりがなくなるのは分かっているのですが、大変な時代だなと。
 
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豊橋は意外に海が近い(豊川河口まで5㎞程度)ので、新鮮な魚が手に入る街なのです。

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 新幹線の車窓からみると、いつも水量の多い印象を受ける豊川放水路。
つくられたのは意外に新しく、1965年だそうです。
豊川は河川法での正式な読みは「とよがわ」と濁ります。
いっぽう、豊橋の上流部にあり、お稲荷さんで有名な豊川市は、「とよかわ」と濁りません。
豊川の源流は同じ愛知県内の設楽町と、それほど山奥深いわけではないのに天竜川や大井川と比べて流水量が多い気がします。

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飯田線は、もとは豊川鉄道という私鉄だったため、豊橋に付近は駅間距離が短く、駅も多いのです。
また、豊橋から長野県の岡谷まで直通する列車は少ないものの、豊橋~豊川間はローカル線とは思えないほど、列車の本数は多いのです。
写真は旧東海道にいちばん近い小坂井駅です。
夕方の退勤時間帯に豊橋方面の上り列車に乗ったため、列車はガラガラでした。
 
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旧東海道沿いにあった古民家カフェ。
以前、ここはお寺が授産施設を営んでいたようなので、こういう施設には、時間があればぜひ立ち寄ってゆきたいものです。
 
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こちらは普通の喫茶店。
モーニングサービスの旗が見えます。
モーニングサービス発祥の地は、愛知県の中で一宮市と豊橋市の2説があるそうです。
いずれにしても、朝に座ってしっかり食べたい人には嬉しいサービスです。
朝というと、忙しい、時間が無いというイメージからゆったりできないように思われがちですが、実は精読を要する古典や哲学書を読むのに、最適な時間だったりします。
焦って先へ先へと読まないよう、参照文献や巻末の資料を引きながら読むのは、夜より朝の方が向いていると思います。
夜寝る前は、小説や随筆など、あまり肩に力を入れなくても読める本の方が、私は読みやすく感じます。
難し本だと、読んだまま電気も消さずに寝入ってしまいますから。
 
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最初見たときは、コインランドリーの乾燥機でも製造しているのかと思いました。
しかし、実際は丸太の自動乾燥機なのでした。
といっても、全然イメージが浮かびません。

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 その向こう、三河湾に沈む夕陽のシルエットになっていて、2つのピークをもつなだらかな丘は、御津(みと)山といい、北麓(旧東海道からみると、手前右)に大恩寺という大寺があります。
このお寺の大旦那は、6㎞東の牛久保にあった豪族、牧野氏です。
この家が、徳川譜代大名となり、越後長岡藩に転封されて明治維新の際、西軍(官軍)に激しく抵抗しました。
世にいう北越戦争で、家老河合継之助が守ろうとした主家は、こんなところ出身だったのです。
そういえば司馬遼太郎の小説『峠』で読みましたが、長岡藩において、殆どの藩士以下の下級武士は越後の言葉(「~でや」)を話していたのに対し、殿様と一部門閥家老は出自の三河言葉を使っていたといいます。
大恩寺は明治になるまで、牧野氏に手厚く庇護されていました。
大恩寺から山を挟んで南側には、JR東海道線の愛知御津駅があります。

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 国道によって、旧東海道が寸断されている区間を、あえて田んぼのあぜ道や、電車の線路わきを通って抜けてみました。
国府(こう)駅の近くで、名鉄本線と豊川線に囲まれた田んぼを走ったのですが、曇天にもかかわらず、田を青々と染める稲の穂と、その向こうをゆく赤くて短い電車のコントラストが見事でした。
背後の背の低い丘陵を背にして、駅の名前通り、三河国の国府と国分寺がおかれていたそうです。

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 工場のパイプラインが旧東海道の上をまたいでいるって、私が知っている限りはここと滋賀県内にもう一か所だけです。
ゆっくり走ろうと交通安全の標語が掛かっているのは、この道が通勤時間帯に抜け道として利用されるからでしょう。
上下4車線の立派な国道1号線が並走しているのですが、こちらはほとんど信号機がないですし、ネズミ捕りもまずやっていませんからね。

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