権威のありようについては、キリストご本人が福音書のなかで同じような発言しています。
「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(マタイ18:4)
「あなた方の中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」(ルカ22:26)
後の言葉は、最後の晩餐の場面で弟子たちの間で誰が一番偉いかについて争っているときに、キリストの口から出た言葉で、その後に「自分が給仕する者である」と言って、ヨハネによる福音書では弟子たちの足まで洗って困惑させています。
しかし、私はこのお話が昔話や教会の教えの中だけにとどまるものではないと思うのです。
司祭とか信者だけへの教義ではなく、人間として大切なことが指摘されている気がします。
たとえば、子どもを教育するときに、どこに権威をもって導いてゆけばよいと思いますか。
親だからとして懲戒権を振りかざす前に、人間を超えた存在の前には、教えるものも教えられるものもみな平等であるというベースが無かったら、ただ自分の方が物知りだから、地位や能力があるから、金を稼いでいるのだから、という理屈だけに権威を求めたなら、教えられた者もまた、次の世代に同じ価値観を強化して受け継いでゆくことになりはしないでしょうか。
これはすごく恐ろしいことだと思います。
いじめやハラスメント、虐待の根っこは、こういうところにある気がしてなりません。
もっとも、信仰を持ち合わせていない人は、何を権威にしたらよいのでしょうね。
私は、この本のタイトルではありませんが、先人の積み重ねた遺産ではないかと思います。
数学の教師なら、これまで数学者が連綿と開いてきた数学について、畏れをもって学び、それを忠実に次世代へ伝えてゆくことを職責だと考えればよいのではないでしょうか。
過去の学問に対し、深い敬意をもって学ぶ先生なら、自分に権威付けしなくても自分の学んだ素晴らしい内容を、子どもに熱意をもって伝えられると思うのです。
私は何も弱い立場の者に対していたずらに畏まれとなどと言っているのではありません。
ただ、神の前によき道具であろうとする姿勢と、人に対して教え諭す態度とは、決して矛盾するものではないと思うのです。
そのために、自己中心的な生き方を、人間を超えたもの中心の生き方に改める必要があると、自分を振り返って痛感しているのです。
あ、キリスト教における価値の顛倒について書いていたら、ついつい脱線してしまいました。
このほかにも、後半の随筆「ルターと近代思想」の中で、キリスト教でいう原罪を題材に、ルターの考え方を神と人間の立場の倒置であると指摘していて、とても興味深く読みました。
即ち、それまでは神を中心としてすべての宗教問題が回っていたのに、ルターは自我を中心として神が廻るようになってしまったのだと、これが近代思潮の主流になっていると指摘しているのです。
この点は、プロテスタンティズムが近代個人主義を基にした資本主義と結びつきやすいのに対し、カトリシズムは第一次産業と結びつきやすい原因だと思います。
チェコが工業国でプロテスタント、お隣のポーランドが農業国でカトリックという関係や、北米はプロテスタントが優勢で、南米はカトリック中心の社会というのもそんな要因もあるのかもしれません。
話を戻して人間の原罪についてです。
たしかに、ルターは「救いは信仰にある」と言ってはいますが、その信仰とはただひたすらに自己の確信であるというならば、確信に疑念が生じることで揺らいだなら、神から救われなくなる結果に陥ります。
これは一面他力主義に見えるものの、他面純自力主義ではないかというのです。
要するに、カトリックとプロテスタントでは人間と神の間の矢印が逆向きということを云っているのでしょう。
さらに、われわれが罪を犯さずにはいられない存在でありながら、にもかかわらず義とされるというのでは、罪と救いという相容れないものを理論の擬制でごまかしているのではないか、凡人に欲が起ることそれ自体が罪なのではなく、彼が欲に負けることが罪であるはずなのにと、反論しています。
先日ブログ7周年の文章の中に出てきた、「僕たちキャソリックはね、必要以上に自分を叩いたりしないの」という言葉は、自我を中心にして欲や罪について考えるのではなく、神の光によってそれらを外から照らしてもらった方が良いと、言い換えることができるのかもしれません。
なお、ここで著者は「個性」と「人格」の違いを強調していました。
個性とは、個々人の差異や区別に関する事柄であり、これに対して人格は理性と意志との問題であるのに、この二つを混同していることが、近代思潮の混乱の原因だというのです。
確かに教育の世界では、「個性を伸ばす教育」とか「個性豊かな人間を創る」「ひとり一人の個性を尊重する」などと言う言葉が並ぶ一方で、「人格を高めるには」とか「人格者を目指す教育」などという言葉は全く語られません。
泥棒にだって個性はあるでしょうが、盗みをする人が人格者であるはずはありません。
いっぽう、聖職と呼ばれる職業に就いていても、人格に欠ける人間は存在し得ますが、下足番やホームレスだからといって、人格者で無いとは言い切れません。
では、個性を伸ばすのではなく、人格を高めるにはどうしたらよいのでしょうか。
「意志の自由を有する人間が目的を認識し、それに向って進むほど人格は高まってく」
「われわれの意志が善と真理に向って動くときに絶対性があらわれる。
ここで、真理の客観性が問題になってくる。」
やはり自分勝手な真理に向わないためにも、自我をいったんは捨てて、もっと大いなるものが指し示す真理に向って歩を進めることでしか、人格は育たないと思われます。
その他小話の中には、神山復生病院の院長として職務にあたっているさいの、患者さんとのエピソードがありました。
また、岩下先生のお勧めの本が紹介されていて、チェーンリーディングに役立つのでした。
その感想は、また改めて。
読みやすさ:★★☆☆☆
本の専門性:★★★☆☆
読んでみたくなった本:
『キリストにならいて』トマス・ア・ケンピス著 大沢章・呉茂一訳 岩波文庫(青804-1)
『正統とは何か』ギルバート・キース・チェスタトン著 安西徹雄訳 春秋社
『浄福なる生への導き』ヨハン・ゴットリープ フィヒテ著 高橋亘・堀井泰明訳 平凡社ライブラリー
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ウェーバー著 大塚久雄訳 岩波文庫(白209-3)
訪ねてみたくなった場所:
真生会館会館(東京・信濃町)
神山復生病院(静岡・御殿場市)