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岩下壮一著『信仰の遺産』を読む(1/2)

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『信仰の遺産』岩下壮一著 岩波文庫(青N115-1)
著者の岩下壮一(1889-1940)先生は、戦前のカトリック司祭で哲学者です。
東京大学哲学科を(主席で)卒業後、一時教師をしたあとにカトリックの司祭となり、亡くなる少し前まで御殿場市にある日本で最古のハンセン氏病療養所である神山復生病院の6代目院長をされていました。
以前ミュージカル「泣かないで」(原作:遠藤周作著『わたしが・棄てた・女』)において、主人公が行き着いた病院のモデルが、この神山副生病院です。
以前、カトリックの洗礼を受けた際にこれくらいは読まなければと、同じ著者の『カトリックの信仰』を読んだのですが、量もさることながら文章が難しくて、他の本と併読しながらでしたが読み始めてから読了するまでに10カ月も要してしまいました。
そのとき、写真で見る岩下先生はすごく優しそうなのに、書いている内容はこんなに過激なのかと思うほどに、京都学派といわれる人たちや、プロテスタント教会、とくに内村鑑三に代表される無教会派の人たちに対する反駁が凄かったのです。
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私もキリスト教との出会いはカトリックではなくプロテスタントでしたから、読んでいてかなり辛かったのですが、著者の生きた時代を考えれば致し方なかったのかなと思い直しました。
戦前、とくに太平洋戦争に向って日本が突き進んでいる際に、他宗教、とくに同じキリスト教であるプロテスタント教会からのカトリック迫害は、かなりの圧力だったといいますから。
和辻哲郎による西洋哲学と日本的思想の融合にも、西洋哲学の本質に欠けるところがあるとして、かなり批判的でした。
(因みに岩下壮一と和辻哲郎は大学の同じ学科で同級生です)
もっとも、岩下先生のプロテスタント批判は、宗教改革後のプロテスタンティズムにおけるイエス・キリストのとらえ方と聖書理解に焦点をあてていましたし、京都学派への反論も、西洋哲学溶け込んだキリスト教神学は、歴史を共有しない日本人にとって、深い研究なしに、表面上だけで斟酌できるほど単純ではないとして、かなり的を射ていると読んでいて感じました。
できればプロテスタント側、京都学派側の再反論があれば読んでみたいと思ったくらいですし、プラトニズムからアウグスティヌス、トマス・アクィナスへと続くキリスト教神学を読むのなら、同様にアリストテレスにはじまるスコラ哲学についても古典から読まないとまずいかもと思った次第です。
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そして、この『信仰の遺産』も文章は平易ではなく、聖書や参照文献も引きながら半年かかって読み終えました。
文庫の内容は15の論文と6つのエッセイ、小編をひとつの文庫本にまとめています。
論文の方は、最初がキリストへの信仰について、教会の位置づけ、教権や教義、司祭職と秘跡、成義についてと、一般的な事がらから専門的な中身へと、内容が徐々に深化してゆくように並べています。
「成義」なんて言葉を出されても、普通の人は分かりませんよね。
「義を成す」といえば、勘の良い人ならああ、ローマ人への手紙の中に「義人なし、一人だになし」(文語訳聖書、新共同訳では「正しいものはいない。一人もいない」)という言葉があったなと思いだす程度です。
「自分は正しい、間違ってない」という主張ばかりしている人には、耳を塞ぎたくなる言葉ですがね(笑)
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なかでも昭和14年に著された「カトリックの宗教的態度」において、著者は以下のようなことを述べています。
人間の自我が絶対的なものでない以上、人間的な自律とは相対的で条件付きの状態にとどまるものであり、神の子(キリスト)の自由とは違う。
また、際限なくゴールを定めない探求は、人間の真理への要求を麻痺させはしても、決して満足に至らしめることはない。
既にどれほどの人が絶望の断崖から荒海に身を投げたことだろう。
そして、誰しもが純人間的な権威の前に、喜んで身を屈するものではない。
人間に対し道徳的服従を求めうるものは、ただ人間を超えた、神的なものに限られる。
啓示をも神学をも有し得なかった権威が、神話を必要とするのはそのためだ。
よろこんで道徳的服従を捧げることのできる世界観を有するカトリック者は、自己の幸福と責任とを思わねばならない。
(一部現代文に変えています)
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この時代の国家神道に対する皮肉は脇によせて、超人間的な存在、すなわち神さまを外部にいただくことで、人間は自己が権威にならずに済むし、むしろ神の権威のもとでこそ、却って自律的な自由を享受しうるという、逆説的な説明になっています。
これ、今の情報化社会において、働くにしても学問するにしても、大事だと思います。
人間を超えた存在に対して責任を負うにしても、信じられるものが何もないと愚痴をこぼしている人よりは、どんなに気が楽だろうと思うのです。
2019年の今年は、秋にローマ法王の来日が予定されているでしょう。
前のヨハネ・パウロ2世の来日の時、私は高校生でもちろんカトリック信者ではありませんでしたが、あの時の世間一般の俄かミーハーのような歓迎ぶりに、内心辟易していました。
今度もまた、まるで有名人が来日するようなフィーバーが無ければいいけれどと、危惧している私にとって、次の文章は教皇や教会の権威とは何かについて、すっきりとした説明を与えてくれています。
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「カトリック者は、学者や雄弁家の膝下に座して教えを聴くものではない。
ペトロの教座を占むる教皇が、大神学者たると否とを問わず、唯彼が使徒伝来の教義を説くの故にのみ、彼に聴くのであって、その個人的才幹如何の如きは、純信仰問題に関しては全然無関係なのである。」
今度は原文のまま転載しましたが、文語調が難しいですよね(笑)
このあとに「教会における説教についても同じ」として、岩下先生はカトリック教会のミサで説かれる教えは新しい教えではなく、二千年近く前から続く旧(ふる)い教えであり、それはすなわち客観的な神の啓示であって、説教者の主観的な体験などではないといいます。
つまり、説教者(司祭)は神の教えを忠実に伝達する機関に過ぎず、できるだけ純粋にそれを信徒に伝えようとする点において、職責に忠実であり得るわけです。
カトリックにおける権威とは、神の威光を笠に着るのではなく、ただ神の道具としてよき道具であり続けようと努力することなのでしょう。
私が洗礼を受けたとき、十字軍の血に塗れた歴史や、最近の司祭による不正蓄財や性的虐待を例に挙げてカトリックを非難する人がおりましたが、良い道具があれば悪い道具もあるわけで、司祭がキリストの教えに背いたからとて、その事実がキリストの教えや神の権威を何ら傷つけるものでないと私個人は考えています。
弟子の過ちは師の責任って、人間同士の師弟関係の話ですから。
そんな理屈で神仏にケチをつける人に限って、他に完全無欠なものなどどこにもないという無神論か、認識することは不可能であるという不可知論しか代案を用意できないものです。
自分が持ち合わせたこともないのに、他人の持ち物を批判したり非難したりするのは、愚かなことだと思うのです。
(ちょっと長いので明日につづきます)
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