昨日に書いたある書籍に対する図書館での公開、貸し出しの制限について、もう少し調べてみると、事態はもっと深刻だと知りました。
7月29日付の雑誌に、当の教授が行った書籍化抗議、出版差し止め運動の理由とあらましが、新聞記事からの引用と加筆にて述べられていました。
正直、読んでいて背筋が寒くなりました。
積極的平等主義とでもいいましょうか。
どうも、様々な意見があること、議論をすること自体が弱い立場の人たちに対して脅威を与え、第二の犯罪を誘発しかねないということをいっています。
こういう議論を続けてゆくと、ハンディキャップのある人や、弱者の平等についての議論はただの観念論に成り下がり、現場に近い一部の識者と呼ばれる人の意見こそが正論として前面に出て、「私の言うことにさえ従っていれば良いのだ」と、異論を差し挟むことはゆるさない雰囲気を醸成してゆきそうです。
周囲の人間がみなこの行為に賛同するばかりで、忠告をする人がいないとしたら、現にこの大学では既にそういう状況に陥っているのではないでしょうか。
太平洋戦争への道は、反対する思想を圧殺し、言論を統制するところから始まったとききます。
おかしい行為には、おかしいときちんと声をあげて、真の平等について意見を表明しておかないと、平等の本旨を奪われかねないと思います。
それは、大量殺戮を正当化する人に対しても、彼の手記を書籍化することはゆるさないとしている人に対しても同じだと思い、ここに続きを書き留めます。
障がい者が傷つき、さらなる不安増大につながると言っていますが、臭いものにはふた式で事件のことを周囲が一切伝えなければ、それで弱者を守ったことになるのでしょうか。
そうした方法で、あなたは存在するだけで価値があるということをつたえることができるのでしょうか。
また、本を読んで触発され、自分も同じ行為をしようとする人間が現れる危険性を指摘していますが、これこそ人間不信の極致ではないでしょうか。
要は読み手を信じていないということでしょう。
もし仮にそのような人間が現れるなら、否、既に現れているのに、誰もがアクセスできる場所に情報を置くなと言っているわけですから。
彼らは弱者だから保護せねばと言う正論には、彼らの能力や成長を疑い、相手を自己より弱い立場に固定化しようとする力が働いているようにみえます。
そこに、弱い立場の人がいてくれるから私たちが彼等から学ぶことができるという、感謝の気持ちは微塵も感じられません。
そして世間が「あれは一狂人の戯言による凶行だった」と以降に無関心となり、事実をなかったかのようにして、話し合いを閉じられた場所だけに封じ込めば、亡くなった人の遺族たちは胸をなでおろすのでしょうか。
こういう感情的な人がよく口に出す、「あなたのお父さんが心失者だったら」とか「遺族のはどう受け止めるだろうか」という仮定を使った問いかけも、他者に対する配慮が足りないように見受けます。
私が当事者なら「冗談じゃない、断りもせずに様々な個性のある他人の立場をひとくくりにして、自己主張の道具として仮定の引き合いに出してくれるな」と本気で怒りますよ。
たとえ自分に障がい者の家族がいようと、どれほど障がい者の現場に向き合っていようと、自己と他者の線引きができていない時点で、相手を尊重する態度を欠いています。
そして、次のような表現でもって、唐突に子どもの育ちに話がゆくところが、最も疑念を感じました。
「保育士・幼稚園教諭養成の立場から、幼児の眼に触れさせたくない書物は数多い。
大人がそれを峻別しなければ、気が付いた時は子どもが犯罪に巻き込まれ、命が奪われることになる。
いつもそのような事件を見るたびに、子どもにとっての成長環境が汚染されていることに心が痛む。」
子どもがスマホを使いこなすこの時代に「書物」だけを問題にするアナクロニズムはさておき、私が子どもの頃、今よりも「大人が子どもの目に触れさせたくない」メディアは多かったし、オープンだったと思います。
子ども向けの本のなかにも、恐怖を煽るような内容や、子どもが犠牲になる話もたくさんありました。
あの時代、子どもに最も影響力を持っていたテレビ番組などは、もっと表現が露骨でした。
だからといって、犯罪に巻き込まれる子どもや罪を犯す子どもが多かったかというと、そんなことはありません。
子どもは子どもなりに、たくましくも冷めた目で世間を見つめていましたし、いくら目に触れさせたくないと隠したところで、そうした現実があるという矛盾に対する大人の卑怯な態度を見抜いていました。
「子どものことを考えると心が痛む」などというポーズ自体が、なぜもっと子どもを信頼してやれないのかと感じ、彼らに対する侮辱のようにに思えます。
そして、大人が書物を峻別するというのは、どういうことなのでしょう。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は表現が卑猥で下品だから見せたくない本ですか。
子どもも含む残虐な写真が多数載っている「夜と霧」(V.E.フランクル著)の霜村訳は、子どもを傷つけますか。
権力者による男児皆殺しの場面があるキリストの子ども向け伝記は、成長環境を汚染するのでしょうか。
さらにいえば、子どもが日常や旅の中で目にする見せたくないものに直面したとき、大人はどう対処すべきなのでしょう。
子どもの目と耳と口を塞ぐべく、人工知能つきの眼鏡でも開発し、彼らに見せたくない、大人にとって不都合な風景にモザイクをいれますか。
それとも、子どもは外出させないで、家の中であなたが峻別して残した本のみを読ませておくのですか。
どれほど子どもに対して傲岸不遜な態度なのか、それとも弱者に対して神の如くふるまう習慣がついてしまっているのか・・・。
私の知り合いに、自閉症児教育に長年取り組んでいらっしゃる年配の方がおられます。
その方は、決して例の事件について、公の場で意見を言わないし、本の出版に待ったを掛け、あるいはオープンな議論に歯止めを掛けるような運動にはかかわらないと思います。
「私は目の前の子どもたちに向き合うのに精いっぱいで、当事者でもない社会の出来事に首を突っ込む余裕はない」が口ぐせでしたから。
ああ、私も彼を参考に、この話題はこれくらいにして、自己の為すべきことに集中しましょう。