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差別主義者と教育者

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このブログでは批判めいたことはあまり書かないようにしているつもりでしたが、あまりにも酷いと感じたので、今回は書きます。
大量殺人事件の被疑者が書いた手記を含む本を図書館に置くことに関し、ある公立大学の教授が「差別的な内容で教育上有害。図書館の開架で間違った考えが社会に浸透されていく」と批判し、公開や貸し出し禁止を求める陳情書を提出したというニュースを目にしました。
その本には、重度障碍者を生きる価値が無いとして、世の中の不幸を減らすために、自分勝手な動機に駆られて多くの命を奪った例の事件の犯人の手記が掲載されています。
もちろん、被疑者の主張だけではなく、彼がなぜそのような思想を持ち、そして犯行にまで至ったのか、危険なサインを見過ごしたうえに、なぜ犯行を未然に防げなかったかについても複数の角度から考察が為されています。
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(今回は本文と写真はあまり関係はありません)

前にも書いた通り、私はどのような生命でも、生きる価値のない命などないという立場なので、この手の考えを持つ人の意見には、その人に犯罪の事実があろうがなかろうが、とても同意できるものではありません。
しかし同意できないからといって、彼の意見を聞く必要は無いとは思いません
むしろ、彼の主張する考えや、それを考察した書物に、「差別的な内容だから教育上有害」と独りよがりな判断をして、図書館で公開、貸出すること自体を差し止めようとするこの教授の方に、被疑者と同じような匂いを感じずにはいられません。
なぜなら、この教授は有害か否かを自分で判断し、その価値観を読み手に押付けているからです。
教員育成に携わる人が書いた本に、「人を裁く者は量産できても、人とともに悩み苦しむ人は(養成機関では)育成できない」という嘆息のような言葉があったのを思い出しました。
差し止め行為こそが、著者はおろか読者に対する差別的な態度であるという矛盾に、この教授先生は気が付いていないのでしょうか。
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いうまでもなく、差別的な内容について検討を加えるのなら、その発言者の言動に耳を傾けないことには、問題の本質を掴みようもありませんし、差別的か否かの判断すらつきません。
また、どうしてこのような思想を持つようになったのか、仮に持ったとしても、実際に行動に移すまでには様々な障壁があったはずなのに、なぜそこを突破してもはや関係のない人たちの命を奪うまでに至ったのか、どこかで止めに入る人は存在しなかったのか、などを考えるうえでも、本人が何を主張しているのかが分からない限りは、考察のしようがありません。
さらにいえば、この被疑者は過去に教員を目指して教職課程を取っていたとききます。
ならばいっそのこと、教育学の修士であった彼がどうして人間の尊厳を否定するような考えに至ったのか、教育や福祉に関わる人であれば、きちんと検証するのが責務でしょう。
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ところが、そうした読み手の自由を、よりによって公教育を行っている大学教授が「有害」と判定して、公の場での公開を制限しようとするわけです。
彼の専門は社会福祉だそうですが、この人にとっての福祉とはいたたい誰の、何に対する福祉なのでしょうか。
本来、大学は学問の自由を保障する場でしょう。
何と学問を志す人を小馬鹿にした、そして自己矛盾に満ちた陳情なのだろうと、暗澹たる気持ちになりました。
そのような教育者に教育される学生も気の毒です。
聞くところによると、この教授のゼミ生たちは、本の出版前から出版反対の署名活動を一緒にしたそうです。
本の内容も明らかにならないうちから、そのような一方的な行為に加担することが、はたして学問的態度でしょうか?
仮にこの教授が感情的な義憤に駆られてそのような陳情を行っているとしたら、学究を職とする者の冷静さを欠いているし、このようなニュースが広まれば、学問の府としての大学もろとも学者としての良識を疑われることに気付かないのでしょうか。
そこまで思って、ふとある公立大学が「差別やハラスメントの排除」を謳いながら、教育的見地からと称して個人を差別し、表にならない場所でハラスメントを行う人物をトップにいただいている事実を思い起こしました。
表と裏をうまく使い分けて、自己の偽善には何らの痛痒も感じていない様子ですが、そんな大学だからか、犯罪をはじめとする不祥事が頻発しているようで、そのたびに「厳正に対処いたします」と判で押したようなコメントを流しています。
こういう人たちは、間違っても「自分にも何か問題があるのではないか」とは、考えないのでしょう。
でも、そのように考える態度こそ、真に教育者にとって必要な資質であると浪馬は思いますよ。
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(とある県立中央図書館へ続く道)

私は10代の頃、まだ東西対立のある状況の世界で、あえて自分とは反対側の体制の国々を旅しました。
自分で実際に行ってみれば、その国の美点も欠点も見えてきます。
階級の無いユートピアを目指したはずの社会主義の国々が、なぜこんなに非人間的になったのかを知りたくて、帰国するたびに歴史や文化、政治や経済など社会科学系の本を色々と読み漁りました。
そんなある日、私の読んでいる本を一瞥して、そうした国に行った経験もない、興味もない人間から、「オマエはアカだろう」と言われたことがあります。
彼は教職課程をとる先生の卵でした。
なんと短絡的な思考回路なのだろう、ならば私が三島由紀夫の小説を読んでいたら「右寄り」なのかとバカバカしく思ったものです。
彼は、勉強はできたのかもしれませんが、肝心なところで勘違いしている自分に気が付いていませんでした。
同じように、教育者を自称する人に、教育の本質を取り違えている人間が多いのです。
私が「教育は自分に対してしかできない」と思う所以です。
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人の命を奪う行為は、どのような場合でも許されないのに、「あの人たちは人間ではないから人命ではない」と自己中心的な考えにとりつかれ、反証を検討することもなく実際に命を奪ってしまった時点で、自らも「社会にとって有害で危険な人物」との烙印を押され、死刑囚になるかもしれないという自己矛盾に陥っている被疑者の彼。
いっぽう教育という他人の可能性を引き出す仕事に従事していながら、片や他人の可能性を制限するような陳情を平然と行って、それが社会的正義であるかのような主張をする大学の教師。
もう、大学には、様々な立場から自由な学びを求めること自体ができぬ時代に来ているということなのでしょうか。
ことが私立大学での話なら、その学校でご勝手にどうぞという判断もありですが、国公立大学の話ですからね。
そんなに自分の意志を前面に出したいのなら、自分で教育機関を創ればよいのです。
一生学問を志してゆきたいと願っている本好きの「生涯学生」としては、どうか本を貸し出す側にだけは「図書館の自由に関する宣言」を固守して、読み手の良識を信じる立場でいて欲しいと願いたいです。
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