(前回からの続き)
③金山新橋南交差点(佐屋街道) 左折
潮見坂で右折して西から北西に針路を変えた旧東海道は、豊橋から西で三河湾とは距離をとるように、そして桶狭間古戦場に代表される、豊明から有松にかけてで知多半島から続く背稜の丘陵地帯を抜け、伊勢湾の湾曲に沿って徐々に進路を北寄りに向けます。
江戸時代の旅では、宮から渡船に乗り出すことによって、進路を一気に南へ振っていたと思われるのですが、残念ながら宮と桑名の間には、現在渡し船は存在しません。
(金山駅の道標がでてくると、金山新橋南交差点はすぐです)
そこで、自分の足で歩くことにこだわる東海道の旅人は、佐屋街道に突入するわけですが、宮からその名のもとになった熱田神宮の杜を右手に見ながら国道22号線を北上すると、金山総合駅がちらりと見えるこの交差点で、ほぼ直角に左折します。
地図で見ればこのあたりが伊勢湾の最深部にあたり、ほぼ真北へ向かっていた佐屋街道が、意を決するようにくるりと木曽三川の流れる西の方向へ転ずる場所です。
この場所は広い歩道を走ってゆくので見落としがちなのですが、車道との間に道標の石柱が立っていて、「さやつしま みのち=美濃路」と読めます。
この交差点を左折せず直進すると、脇往還の美濃路に入り、名古屋、清州、稲葉、萩原、起(おこし)、墨俣、大垣と7つの宿駅を通って、赤坂宿と垂井宿の間で中山道と合流するのです。
知っていました?
名古屋って、宿場だったのです。
もっとも、脇往還の宿駅で交通の要衝として伝馬会所はあったものの、本陣も脇本陣も設けられておりませんでした。
名古屋の人って新幹線の停車駅を巡ってやたらと横浜の人と張り合うという話がありますが、開港前の横浜村と比べれば、宿駅だったのですからこちらのほうが栄えていたはずです。
それに、旧東海道レベルで比べても、神奈川宿や保土ヶ谷宿と、鳴海宿や宮宿の規模で考えると、後者の方がやや大きいと思います。
だから、江戸時代の価値観で比べたら、御三家のおひざ元の尾張名古屋の方が上なのです。
きっと現代の名古屋人たちは横浜を東京のぶら下がりみたいに感じていて、でも横浜の人たちは関東で東京に拮抗する文化を持っているのは、大宮や浦和、千葉ではなく横浜だって気概がある(横浜の中心部に愛着をもっている人は、特にその傾向が強い)ものだから、そこで衝突するのではないでしょうか。
おまけに明治になって舶来文化を最初に取り入れた街です。
他の東京郊外の県庁所在地近くの住人から、横浜の人間が鼻もちならないと思われるのも、同じ理由だと思います。
え、私ですか?
私は横浜よりも幼いころにいた鎌倉に愛着がありますし、その後は横浜のチベットと呼ばれた区部の、さらにその区のチベット(すなわち僻地の二乗、シガツェとかガリみたいな所=チベットのみなさんごめんなさい)みたいな場所に住んでいたので、「はまっ子」という言葉を自分のこととして感じないのですよ。
むしろ横浜は丘をいくつも越えた先にある港湾都市で、多摩川のこれまた遙か向こうに蜃気楼のようにみえる新宿高層ビル群と同列でした。
だから同じような境遇だったはずの某電鉄系なんちゃら開発都市の横浜市民が、「横浜っておしゃれな街」とか発言するのを聞いて、「ぷっ、お互い昔は肥溜だらけで『だんべえ』言葉を喋る野菜供給地住人だったのに」と内心でほくそ笑んでいるひねくれ者です。
それはさておき、美濃路を通って中山道に出て、そのまま関ヶ原を抜けて彦根で琵琶湖畔に至り、東岸に沿って南下して旧東海道の草津宿に出る道が、現代の東海道本線及び東海道新幹線に沿った旧街道歩きになります。
このルートの方が本格的な山道はないうえに、より頻繁に列車の走る鉄道線に沿っているため、鈴鹿峠を越えるよりも難易度が低く、初心者向けです。
美濃路も大須観音の手前からは国道ではなく比較的狭い路地を行きますので、場所によっては旧街道の風情が残っているかもしれません。
また、斎藤道三、織田信長、木下藤吉郎(豊臣秀吉)、石田三成など、戦国武将ゆかりの地がこちらには並んでいますし、何よりも関ヶ原を通るわけですから、時代のロマンもあります。
但し、その関ヶ原はとても気候が不安定な場所で、夏の午後は降雨、冬は積雪に悩まされる場所ですから、美濃路の散策は時候を見極めたうえで出かけましょう。
④愛知県津島市橘町3丁目の交差点(埋田追分) 左折
佐屋街道は金山新橋南交差点で左折してから、養老山地を正面に見、冬は右側から関ヶ原吹き出しの季節風を受けながら西に向かい、佐屋で川下りの船に乗って桑名へ下るというのは本編でも説明しました。
ということは、どこかで西から南に向きを変えているわけです。
こちらの船便もまた存在しない現代の旅で分かりやすいのは、木曽、長良、揖斐の三川を渡ったあと、伊勢大橋西詰で左折して揖斐川の右岸堤防を桑名へ向かうところなのですが、当然に江戸時代は橋が無かったわけですから、そこを転換点とするのは方便でしかありません。
もっと手前、佐屋で船に乗る前に、それまで正面に見えていた養老山系が右手に見えるようになる場所があります。
それが、津島市内のこの交差点です。
交差点といっても、信号機もない、暗渠沿いの路地と市道との交差点ですが、そのまま直進すれば津島神社の参道であり、手前には津島湊もありました。
200mほど手前にビジネス旅館がありますが、手作り感のある小さなジャングル風呂があって、さらにバスタオルとともに寝巻にジャージを貸してくださるという、本物のビジネス旅館でした。
もう少しでジャージ着たまま夜の街に繰り出しそうになったくらいです(笑)
ただ、追分近くの旅館ということで、やはり旅情があるのです。
佐屋街道の部分を電車に乗って省略しない方が良いと思うのは、こういうターニング・ポイントもあるからだと思います。
ここから、亀山宿の手前まで、旧東海道の中でももっとも長い南行きの道になります。
⑤三重県亀山市和田町 和田交差点近くの曲がり角 右折
伊勢湾の西岸に沿って桑名方面から南下した旧東海道と伊勢参宮道の分岐点は、日永の追分で間違いありません。
しかし、旧東海道はそのあともやや内陸部を伊勢参宮道に並行するように南下します。
そして鈴鹿川の左岸に出て、この和田交差点近くで右折して、ここからはまっすぐ西へ、鈴鹿の山を正面に見ながら坂をのぼってゆく形になります。
というか、鈴鹿川が流路の向きを変えている場所でもあるのです。
実質三叉路になっているこの交差点は、左へゆくと白子の湊に続いていたというのは、本編で触れたとおりです。
江戸方向から京方向へと向かう時、右カーブになるのですが、カーブの内側も外側も、古い家が建っていて(外側は閉店した時計・眼鏡店)、これまでのターニング・ポイントのなかで、もっとも昔の雰囲気を残している場所です。
⑥滋賀県草津市草津1丁目 草津宿追分 左折
旧東海道は亀山宿の手前で南から西へ折れた後、鈴鹿峠を越えて野洲川に沿って下り、琵琶湖畔へと向かうのですが、真西というよりはやや北よりに進路をとります。
三雲で野洲川を右岸から左岸へ渡ったあと、草津宿手前の手原あたりで川を離れてかなり左、つまり南寄りにカーブを切るのですが、今は流路を変えて空の天井川になっている旧草津川に沿って、ふたたび西へ向かいます。
そして、彦根方面から琵琶湖東岸を南下してきた中山道と合流するこの交差点で左折して、南へと向かうわけです。
旧東海道を辿る旅人にとっては、出発点である日本橋にて背中合わせ(中山道は北へ、東海道は南へ)に分かれた中山道と、ここでようやく合流するわけで、感動的ですらある追分です。
すぐ京寄りには草津宿本陣があり、中山道の江戸方向は天井川を隧道で越える形式にはなっているものの、「旧東海道の旅が終わったら、旧中山道六十九次をやってみようかな」と思わせる場所です。
ここから旧東海道は琵琶湖からの水の出口である瀬田川を瀬田唐橋で渡り、対岸へ回り込みながら大津宿を出たところで再び南へ向かい、山科盆地に出てから西に進路を変えるのですが、この草津追分から京の都までは、それまで下り坂で北西に向いていた進路が、いよいよゴールに向けて南西に切り替わるという点において、最後のターニング・ポイントだとおもいます。
旧東海道の転換点、おおまかですか5か所を紹介いたしました。
これは、通しで歩いたり自転車で走ったりした人にしか分からないことですが、潮目が変わるというか、ターニング・ポイントを過ぎた後、それまでと道行く気持ちも変わります。
そうした転換点を積み重ねる旅というのは、一気に江戸から京までゆく時間と経済力の無い人には、尺取虫方式のようなシリーズものでないと実感できないかも知りません。
旅行会社に勤務していたころ、いかにして同じディス手ネーション(目的地)へのリピーター(再訪旅行者)を増やすかが課題でしたが、このように長い旅を何回かに分けてするという考え方は、四国八十八か所巡りのようなケースを除いて、なかったように思います。
ですが、やり遂げたあとの達成感と、旅の途中を振り返った時の重層さは、毎回「どこへ行こう」と考えてする旅の比較になりません。
また、なじみ深い旅行先と自分の家とが、自分の足で通り抜けた一本の道で結ばれるという記憶は、あとあとに残るものだと思います。
(おわり)