亀山宿から西へおよそ3㎞の距離にある神辺小学校(34.857140, 136.417272)の前から旧東海道を西へ向かいます。
神辺小学校の前を東から西へ通り過ぎてすぐくぐる陸橋は、手前が名阪国道(国道25号線)、奥が東名阪自動車道で側道も含めると10車線分の高速道路下をくぐります。
名阪国道はこのまま鈴鹿川と関西本線に並行して西へ向かい、柘植、伊賀を通過して天理あたりで奈良盆地へと出ます。
東名阪自動車道は、南下して多気での南で二又に分かれ、左は伊勢を通って鳥羽、右は紀伊半島の尾鷲まで続いています。
また、亀山の北側で第2名神自動車道とも接続しています。
名阪国道の橋げた下には、桑名から関までの広重のおおきな版画パネルがはめ込まれています。
昔は鉄道の要衝だった亀山のあたりは、いま時代が移り変わって高速道路の要衝になっています。
旧東海道の左手は鈴鹿川に沿っていますが、この両高速道路の間で支流桜川が流れ込んでおり、大岡寺畷(たいこうじなわてばし)橋という小さな石橋を渡ります(34.855691, 136.415365)。
高速道路橋脚下に、橋が重なって存在するという不思議な場所ですが、この橋を渡って東名阪自動車道をくぐったら、すぐに右へ路地を入り、高速下の側道を北へ250mほどゆきますと、左手にトラックターミナルが見えてきます。
ここが亀山トラックステーション(34.857535, 136.412173)です。
道路の要衝であるこの地は、物流の結節点であり、このトラックステーションのほかにも、付近にはビジネスホテルやドライブインが複数存在します。
トラックの駐車場に沿って回り込むと、亀山トラックステーションは、道路際に設けられた亀の絵のポールサインといい、建物の佇まいといい、昭和のムードそのままで、トラックドライバーたちのオアシスのようです。
今は規制によって存在しませんが、その昔は映画の「トラック野郎」に出てくるような、派手な電飾を施したデコトラの群れで、夜はキラキラ輝いていたのではないでしょうか。
このトラックステーション、ドライバー以外の人も泊まれて、1泊3800円と格安です。
しかも24時間営業の食堂が館内に併設され、大浴場まで完備していますから、旧東海道のオジサン旅人は、亀山市中心部に複数あるITビジネスマン向け(世界の亀山工場がありましたからね)のビジネスホテルよりも、こちらに宿泊した方が郷愁に浸れるのではないでしょうか。
オジサンと書きましたのは、「男くさい施設」という意味もこめてです。
宿泊そのものを楽しむのでなければ、良い環境のホテルよりも、かえってこのような安宿の方が、翌朝に未練なく早立ちしやすいはずです。
ビジネスホテルで5千円以上払ってしまうと、夏の日の朝など午前4時出立ではもったいない気になります。
レートチェックインに割引制度があるのなら、アーリーチェックアウトにも同様のサービスがあって然りだと思うのですが。
なお、2本の高速道路わきで、1国沿いのトラックステーションということで、車の音は致し方ありません。
この辺りに並んでいる新しいビジネスホテルの方が、防音性は優れていると思いますし、やはり長距離ドライバーを対象にしているところから、大浴場を完備しているようです。
ただ、経験からいわせてもらうと、歩き旅や自転車旅の人は、肉体疲労が激しいので、騒音など気にならないほど泥のように眠ってしまいます。
旧東海道を大岡寺畷橋まで戻って西へ向かいます。
高速道路をくぐると、鈴鹿川の土手をゆくため視界が開け、正面にこれから越える鈴鹿の山々が屏風のように横に連なって見えます。
正面の谷は関西本線や国道25号線の通る谷で、旧東海道や国道一号線の越す鈴鹿峠は、進行方向やや右手になります。
この付近の景色、どこかに似ていると思っていたら、中山道の碓氷峠を前にして松井田川沿いを遡っている時の景色によく似ているのでした。
街道の向きと山の位置関係が同じなので、夕暮れ時など軽井沢に向けて道を急ぐときのことを思いだしました。
鈴鹿川にそってゆくと、道は右にカーブして支流の小野川沿いになり、高速道路下から820mで関西本線の小野踏切(34.852102, 136.407439)を渡ります。
旧東海道をゆく人の中に、踏切に注目する方はあまりいないと思いますが、そこは隠れ乗り鉄の私が、偏執的に解説いたしましょう。
日本橋を出た旧東海道が最初に越える踏切はどこでしょうか?
答えは、品川宿手前の京急本線、八ッ山橋踏切です。
これは比較的簡単です。
では、その次は?と言って答えられる方がおられますでしょうか?
次は保土ヶ谷宿の軽部本陣手前の、東海道・横須賀線の踏切が2番目です。
京急蒲田駅脇に空港線の踏切がありましたが、これは高架化されてしまいましたからね。
その次は戸塚大踏切も廃止されてしまったので、箱根登山鉄道風祭駅手前まで踏切がありません。
さらにすぐ先の、入生田駅の西で渡る踏切が、関東地方最後の踏切です。
すなわち、日本橋を出てた旧東海道は、箱根峠を越えるまでのあいだ、鉄道と平面交差するのは4か所しかないのです。
意外に少ないでしょう。
そしてこの小野踏切ですが、旧東海道中唯一の非電化単線踏切なのです。
つまり、ここまでローカル色が濃くて昔の姿を残したままの踏切は、旧東海道においてここしか存在しません。
明治になって日本が近代化を進める際、物流の要として旧街道に代わって最初に整備されたのは、鉄道網です。
国道などの道路が整備されるのは、戦後のモータリゼーションを受けてからのことですから、時代変遷の交点として存在したのは、道路交差点よりもむしろ踏切だったのです。
そう考えれば、この小野踏切は、石碑も案内板もありませんけれど、れっきとした産業遺産だと思います。
旧道を徒歩や自転車で旅することの醍醐味は、ただ地域のお役所や教育委員会が観光客対象に用意した史跡を巡るだけではなく、このように旅人みずからが自分の足で、歴史に立ち会うという点にあると思います。
さきほど鈴鹿川にかかる東名阪自動車道の橋脚下を通過しましたが、今日高速道路上に「この下旧東海道」などという表示はありませんし、そこを走るお伊勢参りの観光バスのガイドさんも絶対にアナウンスしてはくれません。
旧道を自分の足で踏破した人だけが、「ここは古のお伊勢参りと現代のお伊勢参りが時空を超えて交差する場所なのだ、ムフフ」とひそかに心に留めるだけです。
私がSF小説家なら、事故で高速道から車ごと落下した主人公が、江戸時代にタイムスリップして積んでいたブロンプトンで旅するお話を書いてしまうのですが。
さて戯言はこれくらいにして、踏切を渡ってすぐの小野川橋東詰め交差点(34.852230, 136.406988)は、国道1号線を横断してから左折します。
ところが、国道に横断歩道は存在せず、交差点には横断禁止の標識がたっています。
東側に自転車用スロープの付いた歩道橋があって、そこを利用しろということなのでしょうが、自転車は乗っていれば車両なので、堂々と左側通行で国道を横断したら、左折して、国道右側の歩道を走りましょう。
私が国道や鉄道にかかる陸橋よりも、踏切の方を評価するのは、歩行者や自転車などの交通弱者をこのように差別しないからかもしれません。
車が旅という用途においては鉄道よりもプライオリティを低く考えるのも、自家用車やバスは、同じ道路上において歩行者を犠牲にしているという意識があるからだと思います。
国道1号線の小野川橋を渡り、その先の西詰交差点(34.851755, 136.406575)も直進すると、左折して160mほどで、国道1号線から斜め右へ分岐して、緩い坂をのぼる道があります。
こちらが旧東海道です。
この地点に横断歩道はありませんし、意地の悪いことに小野川橋西詰信号にも国道を渡る横断歩道はついておりませんので、どうしてもくだんの歩道橋を歩行者及び押し歩きの自転車は渡れということなのです。
歩いているときは、内心「ううう、車に乗っているだけでそんなに優遇されるのか」と呻いておりました。
今回の旅も、朝に伊勢朝日の駅を出て、既に夕方にかかっており、宿泊地の関係からも鈴鹿峠を越えるのは無理ですし、歩いたときも四日市あすなろう鉄道の赤堀駅から出発して、峠手前の坂下宿まで歩くのが1日の行程としては精いっぱいでしたから。
国道と旧道の分岐した先の左、ちょうど境目の緑地帯に松が植えてあり、石柱が道の両側にたっています。
旧道右側は小公園になっていて、腰かけることのできるあずまやもあります。
(駐車場はありますが、トイレはありません)
ここが、関宿の東の入口になり、松は関の小万のもたれ松(34.850702, 136.405430)といいます。
関の小万とは、江戸初期に関宿にいたと伝わる伝説の女性で、この先で話題になる「鈴鹿馬子唄」にもしつこく艶事として歌われていますし、彼女のお話は長唄や歌舞伎、浄瑠璃などのテーマにもなっています。
日舞とかをやっている女性なら、名前くらいはきいたことがあるのではないでしょうか。
話をまとめるとつぎのようなものです。
小万の父は九州久留米の有馬家剣術指南役で、同僚の侍に遺恨あって殺され、その妻である小万の母は、夫の仇を討とうと旅に出るものの、身重の体に疲労が重なって関宿の旅籠で倒れてしまいます。
彼女は女児を産んだものの、宿屋の主人に子どもの将来を託して病死してしまい、旅籠の主人夫婦が養父母となり、小万を育てました。
のちに育て親から実父母の話を聞いた小万は、母の遺志を継ごうと実父の仇を討つために亀山藩家老の元で武芸に励みながら、機会を伺います。
1781年8月、運よく父の仇である相手に巡り合った当時16歳の小万は、亀山城大手門にて仇討ちを果たします。
彼女は烈女として評判になり、以降手伝った養父母の旅籠も繁盛したものの、36歳の若さで亡くなり、彼女が育てられた旅籠山田屋(現在はお蕎麦屋さん)に近い福蔵寺に葬られたというものです。
このお話、吉田宿(現在の豊橋)にも別のバージョンがあって、そちらは関から仇を討つべく東下した小万が、吉田宿の小間物商と恋に落ち、一緒に浜松までいったところで仇と出会って討ち果たし、以降吉田宿の小間物屋の女将として店を盛り立て、幸せに暮らしたというもので、こちらも豊橋市問屋町の賢養院に墓があるというものです。
どちらの話にも共通するのは、関で育った小万は美人で、亀山で磨いた剣術の腕も相当のものだったという点で、ここ「もたれ松」は、毎日剣術道場に通うローティーンの小万が、馬子からストーカー行為を受けて、身を隠したという話の伝わる場所なのです。
馬子唄によれば、関の家と亀山の道場を往復する毎日の小万は、月に25足も雪駄を履き潰しています。
小万の腕なら馬子を叩きのめすことくらい朝飯前だったのかもしれませんが、敵討ちを決意している以上。揉め事は禁忌だったのかもしれません。
それにしても、馬子のセクハラとかストーカー行為なのに、なんで鈴鹿馬子唄では情事の話になってしまっているのでしょう。
願望的な内容を勝手に歌詞にしたのでしょうか?
峠と仇討ちというと、箱根東坂で話題になった躄五郎(浄瑠璃の箱根霊験躄仇討)を思い出します。
何ですかね、峠って「ここで会ったが百年目…」という口上と相性がよいのでしょうか。
きっと峠は道が収斂する場所だから、電話もネットもないその当時、探し人を待ち続けるには都合のよい場所だったのかもしれませんね。
今回も長くなってしまいました。
次回はここ、関宿の東端の関の小万のもたれ松から、関宿の中をご紹介してゆきたいと思います。