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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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「願い」と「祈り」は別物

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毎週日曜朝に教会に通っていると、「日曜ごとに何を熱心にお祈りに行っているの?」と訊かれることがあります。
もっと具体的にいうと「毎週何をお願いに行っているの?」ということで、あからさまな人は私が困っているから神頼みに行っているのだと勝手に解釈しているようです。
まぁ、教会の中で歌う歌詞には「われらの願いを聞き入れ給え」という文言もあるから誤解されても致し方ないのですが、別に個人的なお願い事をかなえてもらおうとか、その時の辛い状況を緩和してもらおうと教会に通っているわけではないのです。
言っても理解できないと分かっているので、ミサに行かないと「習慣が途絶えしまい、調子や生活リズムが狂ってしまうような気がして…」とか「どうも手を洗わないで食事するような感覚で居心地悪くて…」と答えているのですが、それでは質問の回答になっていませんよね。
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(今回は写真と本文は関係ありません)
 
これは、大半の日本人にとって「祈り」=「願い事を叶えてもらえるように神仏に手を合わせること」になってしまっているからではないかと、ふと感じました。
キリスト教の神への祈りだけじゃなく、神社や寺院に参詣することも、同様に個人的な希求を叶えてもらいたいと足を向けることが多いのではないかと思います。
(お寺に居て、ブームに乗ってお参りにやってくる人たちをみてもやはり…)
お守りに守ってもらうのは個人的な安全や平穏でしょうから。
三浦綾子先生の小説には、主人公があからさまに「キリスト教は利益宗教ではありません」と言う場面があったりするのですが、これ、何も他の宗教へのあてつけではなくて、仏教だって本質は利益宗教じゃありません。
「ご本尊を拝みますと大変なごりやくがございます」というのは副次的なことで、大切なのは無心になって拝む行為の方ですから。
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私は人生のうちにある転機があって、その時から神社であろうがお寺であろうが、お参りに行って個人的な願い事をするのは一切やめにしました。
一方的に自己の願いをぶつけるばかりで、向こうの声に耳を澄まそうとは全くしない自分が傲慢に思え、突然に祈る資格が無いような気がして、虚ろになってしまったのです。
それからは、お賽銭は見返りを求めず、おみくじやお守りの購入も、参拝した寺社への寄進のつもりで誰かのために買っています。
旅先や日常で立ち寄ることのある神社や寺院が現代人の私たちに何を伝えようとしているのか、真摯な気持ちになって本を読むようになったのも、それからだったと思います。
私は一心に拝んだり祈ったりする行為が悪いとは感じません。
けれども、そこに神仏との取引みたいなものが少しでも入ったら、どうなのだろうと思うのです。
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(高野山金剛峰寺)
 
「祈りは神との対話であり、黙想は自分との対話である」という言葉を聞いたことがあります。
対話と言うことは、相手のメッセージも読みとるわけで、一方的な独白とは違います。
正確にいえば黙想だって自分の心の奥底から発せられる言葉に耳を傾けることだから対話が成立するのでしょう。
もし自分の側に相手への願いばかりが充満していたとしたら、冷静に相手の言葉に耳を傾けることが果たして可能でしょうか。
自分の中に天使と悪魔があらわれて、取っ組み合いの喧嘩をはじめるのとは、全然違う世界です。
こういう話を書いていると、イエス・キリストがエルサレムの神殿に昇った際に、備え物を売る露店や両替商の店をひっくり返したという話を思い出します(マタイ2112節~ ヨハネ2章13節~など)。
後にも先にも、キリストが他人に対して怒って暴力をふるうなんてシーンは、福音書のそこ以外に無いですから。
西洋美術にはこの場面の絵が色々あります。
有名なエル・グレコとかレンブラントに描かれたキリストは、鞭持って思いきり虐待していますよ。
きっと画家たちにとっても、メシア(救世主)のこうした行動は衝撃的だったのでしょうね。
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13世紀から14世紀にかけてのドイツで神秘主義を語った神学者に、マイスター・エックハルトという人がおります。
彼にはのちに教会から異端宣告を受けたため、その生涯に関する記録が殆ど失われてしまい、不明な点が多いのですが、岩波文庫から説教集が出ています。
その冒頭に、この神殿でのキリストの暴行場面に関する講釈があります。
彼によると、日常生活において罪を犯さないよう身を慎み、善人になろうと願い、神さまの栄光のためにどんなに祈ってつらい修業を行おうとも、これと引き換えに神が自己の気に入るものを与えてくれるとか、代償として願いを叶えてくれるに違いないと考える人たちは、すべてイエスに神殿から追い出される商人たちと同じであるというのです。
神と取引しようとするならまだ良い方で、現代の私たちの本音は、自分が不利益を蒙りたくないから、不承不承規則を守り、何か悪い厄災が降りかかった際に「あの時真面目に祈っていればこんなことにならなかった」と思いたくはないので、教会や寺社に行った時くらい神妙にして祈ったり拝んだりするポーズをとっているだけではないでしょうか。
少なくとも過去の自分はそうでした。
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(子どもの頃よく境内で遊んだ鎌倉のお寺=本覚寺)
 
だとしたら、マイスターに言わせれば、そんな信心の欠片も無い私は、イエスさまに追い出される価値もないほどに、神殿に詣でることがナンセンスな人間になってしまいます。
私の子ども時代、教育は立身出世、つまり大人になってから名誉やお金を得るための、修業でした。
サラリーマン時代、会社が赤字に陥ったときに、「私たちは商人(あきんど)です。利益を出してはじめてお給料がもらえるのです」という教育スローガンをみかけたことがあります。
いつの頃からか、ほとんどの人が人間の営みを、売買とか損益とか、生産と消費、需要と供給など、すべて取引とか損得勘定でしかはかれないようになって、教会や神社、お寺へ行くのもその一環になってしまっているとしたら、宗教はいったい何のためにあるのかということになっている現実も致し方ない気がします。
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教会に行って祈るとか、寺社へ参拝して拝む行為の本質とは、沈黙のうちに自己を神仏に向かって開き、自分の内側にある願いとか希求をみずから虚しくして、そこにある人間の肉体には見えない、聞こえないメッセージについて、全身全霊をかけて読みとろうとすることにあると思うのです。
以前このブログでご紹介した映画、「大いなる沈黙へ」を観ていると、そのことがよく分かります。
欧米でよく唱和される祈りに、「フランシスコ平和の祈り」があります。
冒頭は「神さま、私をあなたの平和の道具としてください」で始まるのですが、英語の歌になるとこの部分は“Make me a channel of your peace”です。
Channelとは、テレビのチャンネルとか、水路、導管の意味ですが、「道具」を具体的にいえば、伝声管(昔の船にあるやつ)とか、送風管のようなものでしょうか。
今の言葉で具体的にいうなら、祈りとは神に向かってアンテナを伸ばし、そこで受け取ったメッセージを日常生活や他者との関係に活かすということだと思うのです。
(だからといって、先に書いたように宗教に勧誘するとか、献金やお布施を増やそうとか、そういうことではないと思います)
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(伊勢神宮内宮)
 
この神殿とは、何も現実の教会や神社仏閣を指すものではなく、人間ひとりひとりの魂の奥底にある、良心でもあると思うのです。
だから、教会にいるときも、それ以外のときでも、常に神仏と対話、というよりは一人になって、無言のうちにそこから発せられる微弱なメッセージに、耳を傾けられる人こそ、キリストにまねび、あるいはみ仏の教えに従い、自分個人の願い事よりも優先されるものがあると確信をもって生きる人なのではないでしょうか。
そういう習慣のある人は、本を読んでいても、旅先に出て何をみても、神の愛、仏の慈悲を感じて取れる人だと思います。
たとえ、それとは真逆の、人間の欲望が横行する世界や、その結果として目を覆うばかりの惨状を目にしたとしても、闇の中に差し込むであろう光を観ることができる人は、最後まで希望を失わないだろうと想像します。
少なくとも、お金持ちになったがために、常に心配事が絶えず、余計なものに囲まれて忙しく立ち回り、宗教など人間のつくりだした幻想だとうそぶいている人や、ふだんから雑音や騒音のなかにいるために、たまに静かな環境にある教会やお寺へきても、耳鳴りがして何も聴きとることのできない人よりはましでしょう。
冒頭の質問には、読書や旅を支えてもらっているから、お礼に行っているというのが正直な答えです。
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