(その3からのつづき)
江戸時代の旅装束が等身大のマネキンで表現されておりました。
右から駕籠かき、お侍、一般(農民や町人)女性、同じく一般男性です。
駕籠かきさんが休んでいるところにお侍が「たのもう」と料金交渉しているようです。
駕籠かきさんのように、鉢巻を額で結んでいる姿を「向こう鉢巻」といいます。
これに対して、寿司職人さんなどに代表されるむずび方は「ねじり鉢巻き」、小学生が運動会でやるような姿を、「後ろ鉢巻」といいます。
そして彼のように着物の裾を後方の上で結んで両足を露出するのを「尻端折り」(しりはしおり=しりばしょり)、両手で裾を持ち上げて走るなどの行為を、「裾絡げ」(すそからげ)といいました。
また、お侍と一般男性の被っている笠を菅笠(すげがさ)、女性が手に持っているタイプを三度笠(さんどがさ)といいます。
三度笠は女性用というわけではなく、木枯らし紋次郎も被っていましたよね。
私など、菅笠に洋装だと子ども時代にニュースで見た「ベトコン」をイメージしてしまいます。
でも、あれは「ノン」とか「ノンラー」といって、もっと深いんですよね。
なお、水戸黄門に出てくる助さん、角さん、八兵衛のように、手ぬぐいを頭に載せるのは「置き手ぬぐい」です。
昔は月代を剃っていましたから、頭皮保護の目的でしょう。
ところで、旅人の女性が髪を簡素に結っているのはよいとして、心なしか口元が出ているような…。
これ、歯並びが悪かったり、猫背な姿勢だったりして顎が出るなど骨格が原因らしいですが、明治になって来日した西洋人が日本人を猿にたとえたのは、背が低くて(彼等からすれば)肌の色が浅黒いほか、このような見てくれもあったみたいです。
いまは矯正・整形技術の発達により、見かけなくなりました。
最後に、一般男性のように、小さな行李を縄で結んで前後に掛けるのを「振り分け荷物」といいました。
彼は脇差を差していますが、これは長さが二尺以下なら護身用として武士以外にも携行を認められた短刀です。
ただ、お侍と違い大刀と併せての二本差しは認められませんでしたから、もう一本差しているのは傘か模造刀だと思います。
こちらは二川宿のジオラマ。
山と川の間に細長く宿場が設けられていたことが分かります。
立派な大名駕籠です。
今でいったらリムジンでしょうか。
後ろに参勤交代時の大名行列の模型があります。
参勤交代制度は、徳川幕府が各大名の反乱を封じるため、領主家族を人質として江戸に住まわせ、隔年ごとに江戸と領地を往復されることによって、彼らの出費を強いたというのが教科書での説明でしたが、江戸の繁栄になくてはならぬだけでなく、この制度のおかげで街道の経済も成り立っておりました。
各大名にとっては、自分たちの威光を見せつける晴れ舞台でもありました。
先頭をゆくお侍を「露払い」と呼んでいました。
それで今でも先導車のことをそう呼びます。
続いているのは長槍です。
こちらは儀仗としての意味合いがあったそうです。
なお、広重の日本橋でお馴染みの、先端が耳かきのお化けみたいに装飾された槍は、毛槍といいます。
露払いよりも2、3日先行して宿場の手配やらその土地の領主への礼節を準備する侍たちは、「先ぶれ」といいました。
大名駕籠の周囲を歩く供回りの侍は、近習(きんじゅ)の中でもとくに脇籠は剣術、体力に秀でた者がなったそうです。
領主の近衛兵ですね。
桜田門外の変で最後まで戦い討死した脇籠の侍、二刀流の永田太郎兵衛は有名です。
中元たちが担いでいるのは挟み箱といいます。
列の前の方にいるのは正装の入った先箱で、駕籠よりも後ろにいるのがその他衣類や調度品が入った後箱です。
これは荷籠と呼ばれる入れ物。
今は自転車のハンドル前に取り付ける籠のことを指します。
後ろの人とおしゃべりしながら楽しそう。
長持ですね。
なお、奴振りと呼ばれる独特の練り歩きは、江戸に入府する際や、国元へ帰った時に行うパフォーマンスで、あの格好、歩き方で道中をずっと練り歩いていたわけではありません。
こちらは本陣前にて大名行列の到着を待つ人々。
参勤交代の列も、宿泊する本陣のある宿場だけでなく、単に通過する宿場でも、領主や役人に対して礼節を尽くすため、一旦停止して容儀を整えていたといいます。
その割には、大名行列って意外にスピードが速いので、きっと手慣れていたのでしょう。
こちらは1797年刊行の「東海道名所図会」。
いまはぺりかん社から復刻した書籍を安価に入手可能です。
もちろん、私も読んでおります。
原著者は秋里籬島(あきさと りとう)という京都在住の歌人で、都名所図会、近江名所図会など、当時の日本のガイドブックの先駆者です。
こちらは旅の道具。
扇子には道中の様子が描かれています。
手鏡の下は小道具や化粧道具、「控えよろう」でお馴染みの印籠が展示されています。
火打ち道具に煙草入れ。
当時も歩きたばこってあったのでしょうか。
普通に考えて、煙管をくわえながら歩いたら、転倒したときに危険です。
「枕が変わると寝付けない」とはいいますが、枕って携行用があったのですね。
今は枕片手に旅する人って、よほどナーバスなのかと思われます。
右上の品は折りたたみ式、いわゆるフォールディング・ピローです。
そしてお財布です。
真ん中から右下にかけては、銭刀といって、刀を模したお財布です。
矢立というのは、文字通り矢を立てて背負う篭のほか、このように墨汁と筆が一体化した、携行筆記具をいいました。
お寺で細筆を使っていて思うのですが、筆先に墨がつきすぎると字が滲んで書けないので、硯で穂先を撫でで切るのですが、携行用の筆記具ではこれができません。
だから野外で筆先を舐めながら書くような描写が時代劇にあるのかなと想像するのです。
なお、もっと時代がくだって木筆(鉛筆)が登場し、芯を舐めながら書いたというのは、昔の鉛筆は質が悪くて、書いているうちに芯の先が紙の上を滑るようになり、字が薄れてしまったからだそうです。
携行用の算盤の方は、道中旅にかかる費用を記帳した人たちが使ったものでしょう。
算盤くらい、宿屋で貸してもらえそうな感じですが、宿は宿で会計のために貸し出すわけにもゆかなかったのかもしれません。
ちなみに、現代の団体旅行でも添乗員にとって計算機は必携です。
出入り口に、本を売っていました。
いずれも、旧東海道をなぞっている旅人なら垂涎ものの、かつ書店では滅多にお目にかかれない、図表入りの大型本が中心です。
しかし、自転車で来ている身としては、たとえ経済的に余裕があったとしても、荷物になるために買ってはゆけないのでした。
東京にある大型書店のように、いくら以上購入すると無料で自宅まで届けてくれるというサービスがあったらよいのにと思いました。
私個人は、博物館に限らず学校、図書館、宗教施設などには、本が閲覧でき、かつ希望者は購入できるシステムが欲しいと思います。
そういう意味では、ここの学芸員さんはよく心得ていると思います。
商売的には、東海道の宿場のゆるキャラグッズを集めて売った方が、潤うのを重々承知の上で書いております。はい。
と、見ごたえ十分の二川本陣資料館。
自分も何度も前を通りながら、なかなかゆっくり見学できなかったのですが、資料館を出て街道を走ってみると、かつての旅人たちの姿がより具体的に目に浮かぶようになりました。
旧街道に興味があり、未見の方はぜひ一度お訪ねあれ。(おわり)