(その2からのつづき)
二川本陣の資料に目を通してゆきます。
本陣の遺構内のほか、旧東海道から見て裏手の資料館にも当時の資料のほかジオラマなど江戸時代の交通に関する展示が目白押しです。
資料館は、本陣からも旅籠清明屋からも棟続きで行かれるようになっています。
旧東海道を辿る旅人は、ぜひ日にちを設けてじっくり見たいものです。
たとえば、雨で街道の旅ができないとき、駅から徒歩で来れるこの資料館で一日過ごすというのはどうでしょう。
駅周辺には喫茶店などもあり、豊橋公園内には吉田城址や美術館もあるので、そこと抱き合わせで雨の日に見学するという手もあると思われます。
左上は「大日本細見道中記」
今でいう携行用のガイドブックですね。
もとい、今はスマホやタブレットがあるから、ガイドブックなんて持たないのでしょう。
でも、私は系統的に読めるガイドブックになる本の方が、ネットの情報を断片的に集めて旅するよりも、よほど思い出深い旅になると思います。
日本には、そういうガイドブックが無いのだよな~と思っていたら、ありましたよ。
司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ。
前にフランシスコ・ザビエルのことを知りたくて、「南蛮のみちⅠ」を読んだのですが、すぐにもパリのカルチェラタンとバイヨンヌからパンブロナにかけて旅したくなり、グーグルのストリートビューで辿りましたから。
近所の「横浜散歩」とか「甲州街道」は未読だったことに、今気づきました。
下は「浪花講定宿帳」。
浪花講というのは諸国へ商用で下る大阪商人が加入した団体で、賭博や女郎買い、酒乱、喧嘩などを避けるために、各宿場にクリーンな宿のネットワークを張り巡らしておりました。
これはその宿屋リストのこと。
実際浪花講の宿には、招牌(しょうはい)と呼ばれる札が掲げられていました。
今でいえば、「日観連」とか「○○旅行会社」の看板が玄関にかかってると思うのですが、あれのルーツです。
こちらは宿の宣伝を兼ねた道中記。
宿場名を連ねただけのものですが、地図やナビの無い時代の旅人にとって、今どのあたりなのか、あとどれくらいなのかを絶えず確認することは、ペース配分を考えるうえで大事なことだったのです。
これは二川宿の「飯盛女人別帳」です。
つまりは、飯盛女の戸籍台帳です。
飯盛女は私娼でしたが、旅籠1軒につき2名までと規制されておりました。
しかし、実際には宿場全体で融通をしあっていて、人数は膨れ上がっていたようです。
なお、私娼というと酷い待遇を想像しますが、彼女たちは宿場に現金をもたらす貴重な収入源でもあったわけで、大切にされているケースもあったようです。
二川宿・吉田宿間問屋場印
公用旅行者に経費や給金を支払う際に、帳簿に押した印鑑です。
宿場札とよばれる、宿場ごとに印刷された兌換紙幣。
江戸時代も末期になると、金銀の海外流出がひどくなって、貨幣が市場に不足しました。
これに飢饉などが加わって騒動や一揆に発展するのですが、為政者の「お金が無いから刷ってしまえ」という解決法は、当然のようにインフレーションを招き、これが明治維新の一因ともなっています。
選句集と連句帳。
今どき、詩歌をつくりながら旅する風流人がどれほどいるでしょう。
宿帳の片隅に、狂言のひとつでも毛筆で書き留めておいたら、高杉晋作みたいで恰好よいかもしれません。
彼は吉田松陰の弟子だから詩作に耽ったといいます。
彼の歌というと、遺作になった「面白きこともなき世を面白く…」が有名です。
でも、旅籠だか妓楼だかの行燈に「灯火(ともしび)の影細く見ゆる今宵かな」と歌を残したエピソードの方が印象的です。
あんな強引な性格でも、心細いときもあったのかと。
では一句。
篠雨が肌冷たく注す今宵かな
差村(さしむら)帳
既に助郷村に指定されている村落が、まだ助郷を負担していない村を指名して、追加指定を嘆願し、各村の賦役を少しでも軽減しようとした名残です。
助郷というのは、本当に損な役回りだったようです。
これは飛脚の着用していた前掛けと、携行していた鞄。
公儀や大名の公文書を運ぶ飛脚は、このようにヘッドマークならぬ家紋をつけていました。
ここからは宿場の様子をジオラマとフィギュアで再現したものです。
二人一組の飛脚は、継飛脚(つぎびきゃく)といって、公儀の利用に限られました。
彼らが御用と書かれた札をもって御状箱を担いで走ると、一般の往来は規制されたというので、今のパトカーとか白バイのようなものでしょうか。
背後の床場では、男性が髪を結ってもらっています。
出た、留女。
こんな風に、両手で背後から襲い掛かる様子は、広重の「御油」に描かれています。
向こうは首に風呂敷が食い込んで、苦しそうな表情になっていますけれど。
これは荷物の受け渡しを行う問屋場の賑わう様子です。
今でいったらトラックターミナルといったところでしょうか。
広重の二川宿に出てきた瞽女(ごぜ)さんたちも、ちゃんと再現されています。
しかし、その後ろに番兵のように立っている二人の虚無僧は何なのでしょう。
昔の時代劇の悪役みたいです。
たしか尺八が仕込み刀になっていたんじゃ…。
左奥は商家のようで、商談の最中みたいです。
背景は旅籠のようです。
左手の縦長の箱を背負っているのは六部(六十六部とも)と呼ばれる巡礼僧です。
全国に66か所ある霊場に、法華経の経文を一部ずつ納経しながら行脚して、背に厨子を背負っています。
鼠木綿の粗末な衣服を身にまとい、鉦や鈴を鳴らしながら布施を請いつつ旅をしたといいますから、恵んでくれた人には、背中の厨子を開陳してお経のひとつも読んであげたのかもしれません。
なお、御朱印ブームですが、正式には納経と引き換えにいただくものです。
般若心経が長くて大変なら、観音経を筆ペンで書写でもいいので、時間のある人は納経してあげてください。
お寺の方も、そういう熱心な参拝客に支えられている面があると思いますよ。
あ、手前で転んでいるのは、抜け参りの若者だそうです。
雇い主や村落共同体の管理者(庄屋)に無断で伊勢神宮へ詣でる行為で、お蔭参りのことです。
ああ、私もエルサレムにお蔭参りしたい。
クルマの無い江戸時代、馬に乗せてもらって旅するのは、かなりの贅沢だったでしょう。
馬の背はけっこう揺れますが、それでも歩かないで済むわけですから。
もっともこのお人は刀を二本差しているので、れっきとしたお侍でしょうが。
乗馬をしたことのある人ならわかると思いますが、馬に乗ると視点がものすごく高くなり、偉くなったような気分になれるのです。
江戸時代は軒も低いでしょうから、まさに下々を睥睨するような感じ。
生麦事件で島津久光の行列に騎乗のまま乗り入れてしまった英国人が無礼討ちにあった理由も、何となくわかる気がします。
現代なら大型トラックの運転台と同じくらいの高さで、落馬したらかなり痛いと思います。
(つづく)