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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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東横沿線散歩 東白楽から元町・中華街駅まで(その3)

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横浜三井ビルディング(35.463179, 139.624983)の前から、とちのき通りを臨港パーク入口交差点に向って戻ります。
その前に、横浜三井ビルディングには、原鉄道模型博物館が入っております。
鉄道模型というのは、鉄道発祥の国であるイギリスにおいて、19世紀の初頭に鉄道宣伝用としてつくられたのが始まりだそうです。
今の日本で「鉄道」と聞いたら「日本の軌条(レール)の上を走る交通機関」だと思い浮かばない人はいないでしょうけれど、鉄道そのものが発明されたころには、ミニチュアをつくって動かして展示しないと、言葉や絵、写真だけでは納得してもらえなかったのかもしれません。
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(原鉄道模型博物館のある横浜三井ビルディング)

馬車鉄道はあったみたいですが、蒸気機関そのものが何かわからないでしょうから。
ボイラで蒸気を発生させて、その熱エネルギーでピストンを動かすって言われても、観たことない人には想像つきにくいですよね。
私はあの原理のヒントは、教会のパイプオルガンじゃないかと思うのです。
あれは当初、水とかふいごによって、なんとか風を起こし、それをパイプに送り込んで音を出す仕組みだったわけでしょう。
スティームボート・ウィリー(ミッキーマウス主演の最初の映画)で、ミッキーが鳴らす汽笛をみていてそう思いました。
ちなみに、写真も鉄道模型と同じころにアナログ写真の原形ができてきています。
産業革命って、偉大だったのでしょう。
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(日産ギャラリーにはハコスカが展示されています)

鉄道模型博物館の創設者である原信太郎氏は、文具事務用品でお馴染みのコクヨの開発技術担当から専務までのぼりつめた人で、印刷、物流関係の特許取得は300以上といわれています。
のちにITからAI、バイオ関連技術の技術実現支援を行う財団を創設し、趣味で収集した鉄道模型をもとに、この博物館も創設しました。
プロフィールを読むと、海外の鉄道を知りたくて、小学生の時から英語を学び、中学から高校にかけて、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を習得し、大学入学前にロシア語も習得って、化け物みたいな語学習得センス以前に、そんな鉄ちゃん聞いたことありません。
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わたしも大学生の頃、まだ社会主義の国だったチェコの鉄道に乗って車窓から見えるボヘミアの景色を眺めながら、スメタナやドヴォルザークの音楽を聴きつつ、ドイツの某観光街道より、ずっとロマンチックだなぁ、まるでお伽噺の世界みたいだ、こんな地域をいつまでも旅していたい、なんて感じていましたが、だからといってチェコ語を学ぼうとは思いませんでした。
今だったら、ルター以前に出て宗教改革の魁になり、最後は異端審問にかけられて焚刑死したヤン・フス(Jan Hus 1369-1415)の言葉を味わいたいのなら、学ぶと思います。
プラハの旧市街広場の彼の銅像の台座には、チェコ語で「真実を愛し、真実を語り、真実を守れ」と刻まれていたのが、ずっと印象に残りましたから。
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(パシフィコ横浜浦の自転車専用レーン このように車が停車していないのは朝だけです)

たとえば日本人が同じスラブ語群のロシア語を学んでも、ウクライナから東の地域では殆ど通じないそうです。
ロシア人とは殆ど意思疎通できないと現地の人が言っていたし、それ以前に歴史的・政治的な理由でロシア人とロシア語で話したくないと言っていましたから。
私は当時冷戦構造真っ只中の日本に帰ると、友だちから共産主義とか社会主義に興味があるから中国や東欧へ行くのだろうと言われていました。
本当は、旅費が安かったから長くいられるという理由が一番で、二番目に、へき地とか社会体制などによって、閉ざされた人たちの生活を見たいという希望があったのです。
その方が言葉は通じなくても断然に相手が親切にしてくれますからね。
それに、違う体制の国に行ったことのない人よりも、はるかにソビエトの衛星国や一党独裁の政治体制の社会に生きるということがどういう意味をもつのか、肌身で感じていました。
だからといって、資本(自由)主義陣営万歳なんて手放しで思ってもいませんでしたし、要はバランスだなどとも考えていませんでした。
冷戦がとっくに終わった今になっても、左翼じゃなけりゃ右翼だろうなどという考えしか持てない人は、あの頃と変わっていないと感じます。
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(臨港パーク内は押し歩きになります。これだけ広いのだから、通り抜けのためのゾーンをつくってくれればよいのに)

ああ、今回も脱線しまくりです。
なんで鉄道模型博物館からヤン・フスまで飛んだのか。
そんなにプラハの街やボヘミアが好きならブロンプトンつれてゆけばいいのですよね。
(すごく似合いそうな気がします)
でも、司馬遼太郎先生の小説を読むと、話の本筋から脱線するところがいちばん面白かったりするのです。
授業も脱線する先生の方が好きでした。
『世に棲む日日』だったか、長州藩による下関攘夷戦争(1863-1864)の講和会議において、彦島の租借を申し出た英国のキューパー提督に対して、宍戸刑部の変名を名乗る高杉晋作が、翻訳不能な古事記の講釈を延々と垂れて煙に巻くなんて、史実かどうかはともかくとして、痛快です。
これ、のちほど話に出てくるので振っておくのですが、この時要求された賠償金額の300万ドルという額は、当時としては「ふっかけもいいところ」のレベルでした。
この頃のイギリスは、中国でのアヘン戦争に象徴されるように、アジア人のことなど歯牙にもかけてはいませんでした。
そんな中で、堂々と渡り合う高杉晋作は、人間的には色々問題があったようですが、魅力的です。
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(臨港パーク)

横浜三井ビルのお隣が日産本社ビル(35.463567, 139.626174)です。
一階にギャラリーがあって、以前このブログでチョイモビという名前の一人乗り電気自動車にブロンプトンを載せる実験をしたときは、ここで講習を受けて会員になりました。
ここでまた、自動車の話になると長くなるので、飛ばします。
日産本社が角にあって、新高島駅最寄りのとちのき通り西交差点(35.462755, 139.626709)を渡り、そのまま東へ進むと170mさきの左側にあるのが、横浜アンパンマンこどもミュージアム(35.463005, 139.628662)です。
もとは同じみなとみらい地区の首都高速よりにあったのですが、そちらが本年5月26日に閉館した後、今度の7月7日にこちらに移転開業するのです。
いまはオープンに向けて最終工事の真っ最中でしょう。
同様のミュージアムは仙台、名古屋、神戸、福岡と、作者であるやなせたかし氏の故郷高知県香美市にありますが、横浜が年間入場者数は一番多いのです。
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(ぷかり桟橋)

アンパンマンは困っている人に自分の顔を食物として与えるわけです。
作者のやなせたかし氏は、戦争中の従軍経験(中国での宣撫工作)と、戦後の食糧難と貧困による飢餓体験から、「究極の正義はひもじいものに食べ物を与えることである」という信念をもって、この子ども向けヒーローを生み出したとききます。
飢えている人に、自分を差し出すという自己犠牲的なところ、何よりも、最後の晩餐において、パンを割いて弟子に与え、「皆、これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡される私の体である」と発したキリストの言葉から、作者はクリスチャンではないかと囁かれたそうですが、本当のところははっきりしないのだそうです。
私なんかは、「人はパンのみで生きるものに非ず」という言葉とか、旧約聖書の出エジプト記に出てくるマナ(モーセがイスラエルの民をつれてエジプトを脱出し、荒野で飢えた際に天から降ったとされる食物)を思い出し、アンパンはないだろうと思ってしまいます。
それに、キリスト教徒なら「正義」よりも、「愛」という言葉を使うでしょう。
でも、旅先などでひもじい思いをして、一個のアンパンを少しずつちぎりながら、時間をかけて食べた経験はあるので、飢えを癒すことこそ究極の正義という気持ちは分かります。
お金か、正直かで選択を迫られる場面は、飽食の時代にあってもそこかしこに転がっていますから。
生前全くキリスト教とは関係ないとみられた人が、亡くなったあとに遺品から聖書が出てくるという例は、結構あるみたいです。
明治の反骨政治家だった田中正造や、最後の海軍大将井上成美もそうだったと聴きます。
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(臨港パークからみたベイブリッジ)

さて、オーケーストアの前を通過して、臨港パーク入口交差点(35.462803, 139.633039)に戻ります。
ここからやっと本筋に戻ります。
みなとみらい橋を渡ってきて、そのまま直進してみなとみらい地区へ入ると、そこから赤レンガパークの先まで、自転車走行レーンが道の両側についています。
けれども、コンベンションホールのパシフィコ横浜(35.459312, 139.636092)に沿って進むため、早朝以外は駐車車両が多く、イベントがある時などは歩道にも人が多く歩いています。
そんな場合は交差点を左折して臨港パークに行ってみましょう。
臨港パークの中は自転車に乗れませんので、北の公園入口(35.462690, 139.637020)からパシフィコ横浜の車寄せ(35.459273, 139.636832)まで、470mほど押し歩きになってしまいますが、橋の上からよりも波打ち際まで寄ることができます。
(柵はありますが)
冬の日、北風の強いときなど、波頭が飛沫をあげるので、寄りすぎると濡れることもあります。
けれども、この臨港パークからぷかり桟橋にかけては、この後ご紹介する象の鼻パークや山下公園よりも、人が少なくてかつ海に近寄れる場所だと思います。
展示ホール裏手を走ってくる道へは、パシフィコ横浜前交差点(35.458172, 139.635201)で復帰できます。
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(みなとみらい地区の中心部を貫く、グランモール)

そこから、建物が帆の形をしたヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル(35.457699, 139.637215)前を過ぎれば、大岡川の最下流にかかる国際橋(35.456413, 139.636881)を渡って、みなとみらい地区から新港ふ頭へと入ります。
なお、みなとみらい地区の歩道ですが、ランドマークタワーと、グランモールを除いては、路面に凹凸がつけられており、小径車にはたいへん乗りにくくなっています。
また、最初の概要でお話した通り、海に近い道ほど扇の要寄りになるため、移動距離も短くなります。
くわえて、道路を走る車の量は、海から遠ざかるほどに増えますので、埋め立て地で「むかしみち」のないこの辺りは、みなとみらい橋を渡って直進し、国際橋へと車道を走るのがベストだと思います。
次回は国際橋から新港ふ頭を抜けてゆきたいと思います。
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