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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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神います み空を仰げ

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梅雨の時期、飛行機に乗ると分かるのですが、一日中鈍色の雲から篠雨が降り注ぐような日でも、雲を突き抜けてしまうと、意外に梅雨前線の雲は低層域にあるのが理解できます。
そして、当たり前ですが高層域では青空に太陽が輝き、まぶしいくらいに前線に停滞している雲を照らしています。
飛行機の窓から見るその白い覆いは、隙間なくどこまでも広がっていて、まるで大量の牛乳をこぼしたような感じです。
そんな梅雨の最中、日曜日に突然晴天が訪れました。
梅雨の中休みなのかもしれません。
前日まで降った雨が、埃や塵を落としてくれたのか、澄み渡った青空を久々に見たような気がしました。
教会から帰ってきたら、あまりにも空が美しいので、近所をブロンプトンでお散歩してきました。
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サラリーマンの頃、フィリピンの火山が爆発して大量の塵を成層圏まで吹き上げたため、何カ月もの間、夕焼けが真っ赤に染まったことがあります。
ビルの四角い窓からわずかに見える茜空をチラ見して、「このビルに屋上があったらなぁ」と何度もため息をつきました。
その頃、サラリーマンが屋上でタバコを吸いながらサボる風景は、ドラマではお馴染みでしたから。
でも、あいにくそのビルには屋上が無く、しかも上階はお客さまでもあるお役所が入っていたので、行けなかったのです。
自転車に乗るようになってから、よく空を見上げては写真を撮るようになりました。
クルマやオートバイと違って、どこでも立ち止まることができますし、腰にさしたデジカメをさっと取り出してシャッターを切れば、スマホを胸ポケットから取り出してカメラを起動させるより素早く写真が撮れますから。
でも、道で有名人を見かけたりしても、カメラを取り出すことは決してしません。
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子どもの頃は、都内でも山手線の外側に行けば大きなビルは建っておらず、広い空を眺められたのですが、いまは大きな川の河川敷などへゆかないと、大きな空には出会えません。
家の近所にも歩いて5分の場所に富士山が見える坂があったのですが、いまは家やマンションが建て込んでしまい、全く見えなくなりました。
それでも、幸いなことに自転車で10分も走ると、台地の上に市街化調整区域の畑が広がっていて、このような広い空を眺めることができます。
空がきれいだなと感じたら、躊躇せずそこまで走ります。
もっとゆけば富士塚公園とか展望台のある広場がニュータウン内もあるのですが、開発前の姿を知っているので、どことなく造られた町並みが白々しくて、行く気がしません。
それに、日曜日の天気の良い午後なんて、人が沢山集まっていて、ぼんやりと空を見上げるような雰囲気でもないのです。
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通常の日曜日であれば、教会帰りの午後は読書をし、或いはブログ書きをして過ごします。
でも、心理学だったか教育学だったか、「人間の成長には、いっけん無駄とも思える何もせずにぼんやりと自然に接して過ごす時間が必要だ」という趣旨のことを本で読んだことがあります。
若いころにはオートバイで林道へ行って、自分専用の開けた場所で大の字になってひっくり返り、空の青の深さをはかりながら、大空を吹き渡る風の音を聞いていました。
(朝が早かったので、寝てしまうこともしばしばでしたが)
スケジュールが「何かをする」ことで埋まっていないと不安で仕方がないという方もいらっしゃるかもしれませんが、何もしない時間があっての何かをするという面があると、私は思います。
だから、何もせずにボーッとしている子どもを怠け者なんて決めつけてはなりません。
読書も、音楽も、テレビも、携帯も何も寄せ付けずにいると、五感に何かを感じるものという経験は、大人になってもあると思います。
一人宿泊した山間の宿で、そばを流れる川の瀬音や、降りしきる雨音を耳に、天井の木目模様をじっと眺めているとき、腹を立てている他人とか、明日への不安などネガティヴなことではなく、闇に包まれていることの妙な安心感というものを感じ取ったことはありませんでしょうか。
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前にも書きましたが、私の学校の校歌の3番は次のような歌詞です。

神います み空を仰げ
神はわが 遠つみ祖(おや)
わが業(わざ)を よみし給わん

普通の学校なら校歌の3番なんてまず歌いません。
事実、6年も通った近所の小学校の校歌について、1番以外は全然覚えていません。
けれど、中学校では毎日のように混声四部合唱で3番まで歌っていましたから、「天にまします我らの父よ~」(主の祈り;プロテスタント訳)と同様に覚えているのです。
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で、今になってこの歌詞は素晴らしいと思うのです。
神のいる、といってから空を仰ぐということは、「天のいと高きところには神に栄光あれ」(←ラテン語でいうと皆が知っている“Gloria in excelsis Deo”です)と観想することそのものです。
遠い祖先って、もちろん血のつながりのことをいっているわけではありません。
どんな人間でももっている霊性によるつながりのことでしょう。
そして、中学生の時にはわからなかった、「わが業(わざ)を、よみし給わん」という言葉。
あの頃は神さまに手の内をすべて読まれているのかと勘違いし、「怖っ」と思っていたこの部分も、今は聖書の創世記に出てくる創造物語につらなる話だと理解しています。
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つまり、旧約聖書は冒頭に、神さまは六日間をかけて光から天と海と地、そして地上の生き物に至るまでの諸々を造り、七日目を聖別したという、一週間の起源でもあるお話が出てくるのです。
(旧約聖書を頭から読むと、創造物語に続いて、蛇の誘惑から楽園追放、カインとアベル、のように有名な話が続きますが、そのあとにノアの洪水を挟んで系図の話が続き、やたら登場人物が増えて挫折するのが、よくあるパターンでした。)
そのとき、神が創った対象ひとつひとつに、「善し」と仰いました。
「よみする」とは「嘉する」と書き、「良し」に接尾語の「み」が付いて、「よしとする」という意味ですから、要するに、神が創った際に「きわめてよい」とほめた人間の為す業ですから、その人間の行いもまた、よしとしてくださっているという意味なのでしょう。
(創造神への感謝があってのお話しで、信仰の無い人が、自分勝手な他人に対する迷惑行為や悪事をしても許されるという意味ではありません。念のため)
私はこの神が嘉し給うという実感が無ければ、翻訳も全うできなかったし、旅も、読書もブログもここまで続けることができなかったろうと、感じるのです。
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荒唐無稽な神話を真に受けてと思う方もいるかもしれませんが、今は子どもの親も、友達も先輩も上司も、よみすことができる心の広い人は少ないではないですか。
それどころか、人のやることなすこと頭から否定したり、腐したりするのが自分の役割みたいに勘違いしている人ばかりです。
その理由が、自分もまた人から叩かれて育った過去があるとか、自分のしている悪事を隠すためだったりとか、ロクなものではありません。
そういう人の頭の中の神様は、大概閻魔大王のような懲罰的な神だったりします。
そんな人が、いくらコーチングやアドラー心理学の本を読んで他者を励まそうとしても、どこか芝居がかった胡散臭さを感じます。
だからこそ、自分を超えた大いなるものから「よみしてもらう」のは、現代の心理学でよく言われる、自己肯定感情の根幹にかかわる問題だと私は考えています。
走るのをやめて停止し、自転車にまたがったまま空を仰ぎ、ふと、ああ、いま天におられる私たちの父と、暖かな対話を試みているのだなぁと思ってみるのでした。
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