アウグスティヌスの著作集を、1、2巻の初期哲学論文集から読んでいって、3巻まできたときに、急に対象の本が入手できなくなってしまいました。
正確にいうと、オンデマンドで再刊された本は入手可能なのですが、もともとの本は絶版状態なのです。
オンデマンド出版の本はどんなだろうと思い、出版元の教文館(銀座)まで行ってみました。
実物を手に取ってみて、少なからずがっかりしました。
まず箱が無いのです。
それはいいとして、受注生産品の割には、昔の本に比べてつくりが街の印刷屋さんの製本みたいな感じで、どことなく安っぽいのです。
OD版じゃない通常の著作集とならぶと、余計にカッコ悪くみえます。
それでいて、お値段は7,560円もします。
売れる本ではないことは承知していますが、この値段だと、3カ月くらい貯めないと買えません。
しからば古本だと思いネット検索すると、これが3巻だけというのは殆どありません。
かといって、30巻まとめて買うなんて、古本でも不可能です。
それだけ入手困難なら、1巻くらいとばして4巻を探そうかと思ったのですが、3巻の中には「自由意志」が入っているのです。
ここ、アウグスティヌスを学ぶうえでは避けて通れない部分です。
全知全能の神が人間の創造主であるならば、悪はどこから来るのか?
人間が罪を犯すのは、人間の自由意志によるもので、信仰の欠如、つまりは神への背理にある。
ならばなぜ創造主は人間に自由意志を与え給うか?
こうした要点は、晩年に原罪からの救済に関して、「神の恩寵か自由意志か」でペラギウスとの論争に発展する(著作集の最後の方は、ほとんど彼に対する論駁集)点から考えても、アウグスティヌスが最初から人間の自由意志をどのようにとらえていたか、押さえておかねばならぬ部分なのです。
日曜日に教会に行くと、本棚にアウグスティヌス著作集が揃っていて、この第3巻を手に取ってパラパラめくってみます。
すると、「悪の起源を問うことは信仰における問いである」(1-2)「存在・生命・知解の三段階、および外的感覚の働き」(2-3)「むさぼりの罪」(3-17)など、目次には読みたいテーマが並んでいて、ますます欲しくなってしまいました。
そこで、半年以上「日本の古本屋」とか、アマゾンで検索して、よい出物はないかと探していたのです。
あるとき、何気なく検索をかけると、3巻だけが吉祥寺の「よみた屋」さん、で売られているのを見つけました。
値段はネット価格で10,000円。
うーん、簡単に購入できる額ではありませんが、美本とあります。
古本は一点ものだから売れてしまうと、今度いつ手に入るか分かりません。
とりあえず見るだけでもと、新宿からブロンプトンをつれて中央線に乗って、吉祥寺まで行ってみました。
滅多に乗ることのない中央線ですが、新宿から乗ると畳んで曳く距離が長くなるので、お隣の大久保までブロンプトンでゆき、そこから各駅停車に乗りました。
大久保駅なんて、高校生の頃予備校の模試で来て以来の利用です。
ホームにあがって下り列車の時刻表をみると、結構中野止まりの電車が多く、三鷹まで直通する各駅停車は少ないのでした。
これは、中野以西は東西線が乗り入れているからだと思われます。
意外に遠いなと思いながら吉祥寺について、井の頭公園に近い出口から井の頭通りを都心方向へ少し戻ります。
井の頭線のホーム下をくぐると、目指すよみた屋さんにすぐ到着です。
これなら自転車を展開するまでもありません。
もう店構えからして読書好きの心を鷲掴みにするような雰囲気です。
店頭のキャッチ用本棚には、ISBNコードなんて無い時代のボロボロの本が並んでいるし。
哲学書も、今受けする現代思想や構造主義、分析哲学とは別に、インド哲学や日本思想、キリスト教神秘主義の本が並んでいて、私にとっては、ずっと本棚を眺めていても飽きない古書店さんなのでした。
町田にある高原書店もそうなのですが、人文、科学を問わず、学術書を豊富に置いている古本屋さんって、どこか同じ匂いがします。
歴史書や地誌などが積みあがっている本屋さんより、やや明るく社交的な感じがして、押しつけがましいところが無いのです。
書家の本などがたくさんある本屋さんへゆくと、気のせいか墨汁の匂いがするのと同じです。
だいたい「よみた屋」なんて、読書好きならニヤリとするネーミングではありませんか。
目指す本はすぐに見つかりました。
はじめての人が、店員に聞かなくてもお目当ての本にすぐアクセスできるって、きっと書架の並べ方も良いのだと思います。
手に取って中身を確認してみると、大好きな山田晶先生の推薦文による箱帯もちゃんとついているし、どうも殆ど読まれずに本棚のこやしになっていた感じです。
しかも1989年発行の初刊本。
裏表紙を確認すると8,000円になっています。
なぬ、ネットより安いではないですか。
オンデマンドの新刊書と同じくらいの値段です。
うーん見るだけのつもりで来たものの…。
結局、思い切って購入しました。
さて、帰りはどうしましょう。
電車なら井の頭線で渋谷に出て東横線に乗り換えるところです。
しかし、せっかくブロンプトンで来ているのですから、走って帰ることにしました。
井の頭公園通りから人見街道を通って、サッカーやラグビーでお馴染みの国学院久我山高校付近に出ます。
そこから寺町通りを通過して千歳烏山駅で京王線を横断します。
そこから千歳通りに並行する一本西の路地を通って祖師谷通りに接続し、徐々に環八との距離を詰めていって、世田谷通りと環八の交点である三本杉陸橋に出ます。
さらに砧公園の中を抜けて二子玉川に出て、多摩川を二子橋で渡れば、南武線沿線の武蔵溝ノ口や武蔵新城はすぐです。
吉祥寺から家までゆっくり走って2時間でした。
電車で行っても1時間半はかかると思うので、重い本をフロントバックに詰めながらでしたが、よい運動にもなりましたし、ブロンプトンで走って正解でした。
途中砧公園で少し本を拾い読みしました。
殆どは親友エヴォディウスとの対話形式になっていますが、プラトンなどでお馴染みの書式です。
「人はつよい欲望を感じて妻や娼婦の身体を抱くとき、自分は幸福だと叫ぶ。
しかしわれわれは、真理の抱擁において幸福であることを疑うであろうか。」(116頁)
これこれ、アウグスティヌス節のストレートな表現が大好きなのです。
くわえて、同じ本の中に収められている音楽論も面白そうです。
袋の中から、よみた屋さんのチラシが出てきました。
そこには「スローリーディング宣言」なる文章が載っていて、今はやりの多読、速読にたいする反対意見が述べられていました。
知識をひけらかすように、読書量を自慢する人は私もどうかなと思います。
(こんど「精読」や「重読」をテーマに文章を書いてみようかと思います。)
もっとひどいのは、読んでもいないのに、さも読んだかのように本の批評をする人です。
前にトマス・アクィナス著「神学大全」の抄訳を読んでいたら、「何でそんな古臭い本を読んでいるの」と皮肉られたことがあります。
彼の愛読書は邱永漢だそうで、おたふく会じゃあるまいしと思う私とは、絶対に反りが合いません・・・。
内心で「読んでもいないあなたに、トマスの肯定的な生への促しなんぞ、逆立ちしてもわかりっこないでしょう」と思いながら、「温故知新ですわ」と皮肉で返すのでした(笑)
それはさておき、気骨のある古本屋さんは残って欲しいものだと感じ入り、また覗きに行きたくなってしまいました。