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旧東海道へブロンプトンをつれて 46.亀山宿(その2)

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(旧東海道は右折ですが直進すると…)

亀山宿の中心部、江ヶ室交番前信号(34.855110,136.454006)から旧東海道の旅を続けます。
旧東海道は交差点を左に折れて坂を下ってゆくわけですが、亀山西小学校(34.856615,136.451943)と市役所(34.855836, 136.451636)の間を通ってまっすぐに尾根道を進むと、多聞楼(34.856249, 136.450525)という残っている楼閣を左手に見て、亀山城址に入ってゆきます。
伊勢亀山城は鎌倉時代中期の1256年、伊勢平氏の一門である関氏によって築城されました。
戦国時代に入り、織田信長の伊勢侵攻によって蒲生氏郷が城主になり、その後豊富方の熱田神宮の神宮家であった岡本氏が入り、関ケ原の戦い以降はいったん関氏に戻された後、譜代大名が藩主をつとめています。
ところが1632年、幕府より丹波亀山城を破却するよう命じられた出雲松江藩主の堀尾忠晴によって、天守が解体されてしまいます。
しかし、忠晴の勘違いによってというのは表向きで、一万石の小藩に似合わないほどの立派さを誇ったため、壊されたというのが本当の理由みたいです。
その証拠に、堀尾忠晴はこの一件で処罰を受けていません。
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(多門楼の前に出ます。このまま坂を下ってゆくと、池の側を左に見て亀山宿の碑に出ます)
 
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(江ヶ室交番前交差点を左折すると、黄色くカラー舗装された道をたどれば、旧東海道をゆけるようになります)


現代でいったら、広島県府中市の市役所を解体して更地にしてこいと命じられた業者が、間違えて東京都の府中市役所を解体してしまうようなものですから、何のお咎めもないというのはかなり不自然です。
ただし、東海道の途上にある亀山城は徳川将軍家の宿泊施設としても機能していたらしく、二の丸が宿所に充てられていたそうです。
なお、天守閣のあった場所に現在残っている多門櫓は、ちょうど堀尾忠晴の一件があった頃に建てられた城郭建築で、大変貴重なものだそうです。
また、櫓の下の石垣はやはり同時期に穴太衆(あのうしゅう=比叡山東麓にいた石工・石垣職人の集団)によって積まれたもので、後世に修復された個所を除き、現在まで同じ姿を保っています。
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(このカーブの具合が、旧道感を盛り上げます)
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(遍照寺山門 本堂や庫裏は、ここから階段を下った先にあります)
 
さて、江ヶ室交番前信号を左に折れて旧東海道を辿ります。
昔の屋号を木札で記した家の間、緩すぎず、急すぎず、ちょうど良い塩梅の坂道を下り、クランクを過ぎた後に左に現れるお寺が、天台真盛宗の遍照寺(34.853608, 136.452437)です。
おっ、天台真盛宗とは珍しい。
この宗派は天台宗の中でも戒律とお念仏を重視する宗派で、総本山は大津市坂本にある西教寺です。
真盛というのは開祖様のお名前ですね。
このお寺、斜面に建っています。
すなわち、旧東海道沿いにある山門上に鐘楼があり、本堂はそこから階段をさがった先にあるため、「頭で鐘つく遍照寺」といわれています。
本堂は、前述した亀山城二の丸の玄関と式部の一部が移築されてできているということです。
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誓昌寺
 
さらに坂をくだってゆくと、左手に真宗高田派の誓昌寺(34.853837, 136.451721)をみて、その先右手に和菓子屋さん、さらに左手に種苗問屋さんを見ながら左へカーブを切ってゆくと、江ヶ崎交番交差点から410mで三重県道302号(亀山石水渓)線に出ます。
この県道は前回お話した亀山城のある丘がちょうど崩れた谷になっているところを上下している道路で、そのまま左手に下っていった突き当りはJR亀山駅になっています。
右手にはその崩れた谷に抱かれるように、これまた前回説明した池の側(34.854889, 136.450804)という名前の池が水をたたえています。
東海道亀山宿の石碑(34.853965, 136.450423)を左にみながら県道を横断して30mほどの坂道をのぼると、あずまやがあって、そこから池の側越しに冒頭でお話した多門楼が、かなり高い石垣の上にそびえています。
ここが亀山宿の西町問屋場(人馬の継立を行った役所)跡(34.853780, 136.450447)です。
本陣があったあたりを東町と呼ぶのに対し、この辺りを西町といいます。
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(県道と交差する地点。正面の坂をのぼります)
 
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(池の側)


くだりかけてもう一度丘の上のレベルまで戻った旧東海道は、そこから西へ向かいます。
この辺りは、旧道の目印として道路が黄色の特殊舗装を施されているため、迷うことはありません。
すぐ先の左側に、飯沼慾斎生家跡(34.853938, 136.448789)の標柱が立っています。
飯沼慾斎(1782-1865)って誰?と思ってしらべると、江戸後期の蘭方医であり、本草学者でした。
本草学というのは、その当時の薬学のようなもので、彼は60代になってから日本で初めてカール・フォン・リンネによる植物分類法を採用した草木図説を出版し、その後も種痘を試みたり、写真の研究をしたりしています。
おそらくはすべて医学がらみなのでしょう。
彼が存命のうちに出版した草木図説は20巻までで、そのあと日本植物学の父であり、牧野日本植物図鑑の著作がある牧野富太郎によって増訂されて、樹木の部まで刊行したのは1977年でした。
まさに、医と薬にささげた生涯です。
生家が街道沿いにあるということは、小さいころから情報に触れ、商人の往来を見ているうちに興味をもったのかもしれません。
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(西問屋場跡から多門楼を望む)
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(西町を抜ける旧東海道)
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(飯沼慾斉生家跡)
 
その先旧東海道は右、左と突き当たってクランクするのですが、二番目の突き当り正面が復元された亀山城西の丸と外堀です。(34.854988, 136.447759
図で見ると亀山城は丘の上にあるどちらかといえば山城に近い性質をもっているにもかかわらず、城郭を囲むように深さが1.8mほどの堀をぐるりとめぐらせ、そこには水深60
ほどの水が張られていたようです。
この丘の上で、どうやってそれだけの濠に貯める水量を確保していたのでしょう。
雨水だけでは足りないと思うのですが、導水路も、湧水が豊富にあったとの記録もありません。
どうも先ほど見た池の側の部分が溜め池構造になっていたようです。
そう考えると、伊勢亀山城は地形を存分に利用しており、その濠の外側を旧東海道が東西に抜けているということになります。
イメージ 13(亀山譲西丸跡)
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(青線が旧東海道。お城のヘリを通っているのが見て取れます)

黄色く塗られた道路のガイドに沿って二つクランクを過ぎたあと、県道との交差点、亀山宿の石碑から500mのところで、街道は左へカーブした後下り坂にかかります。
この坂を京口坂と呼び、その坂の上に京口門がありました。(34.855639, 136.446112
つまりは亀山宿の西の出入り口になります。
この門は冠木門と棟門を備え、脇に白壁の番所のついた立派な造りで、「亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門」と謳われるほどだそうです。
「過ぎたるものの二つあり」は「三成に~島の左近と佐和山の城」の方が有名です。
島左近はもちろん関ケ原で亡くなりましたし、佐和山城も落城後に廃されて残っていません。
もちろん京口門もありませんが、伊勢屋の蘇鉄だけは残っているそうです。
旅籠の伊勢屋は東町にありましたが、くだんの蘇鉄はJR亀山駅にほど近い、亀山市文化会館の東側、みゆき公園に面した場所(34.851422, 136.455591)に移植されて現存するそうです。
樹齢推定500年の立派な蘇鉄です。
また、伊勢屋は旅館いせやさん(34.851096, 136.450554)になって、やはり駅近くにあるそうなのですが、これが東町の旅籠を受け継いでいる宿なのかどうかは不明です。
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(京口坂)
 
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(京口橋付近から、鈴鹿の山々を望む)


京口坂を下ってゆくと、晴れている日は正面に鈴鹿の山々を眺めることができます。
坂の途中右側には浄土宗の梅巌寺(34.856235, 136.446273)があります。
広重の版画、亀山雪晴(ゆきばれ)の構図は、この坂の中腹辺りの景色です。
五十三次の版画の中では、同じく雪景色の「蒲原」とならんで、雪の双璧と呼ばれてる名画です。
しかし、これは蒲原も同様ですが、亀山宿もかなり南にあるイメージですから、こんな風に雪深い景色になることがあったのか疑問に思います。
江戸時代は今よりも年平均気温は低いですし、ここは今でも鈴鹿山脈を越えて雪が降ることもあるので、積雪もあったかもしれません。
梅巌寺を右に見た後、京口橋で竜川を渡り、坂の下の方右手にあるのが日蓮宗照光寺(34.855938, 136.445203)です。
旧道より一段下がった場所に山門があり、その脇に広重の版画が掲げられています。
次回はこの照光寺前から47番目の宿場、関宿へと向かいます。
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