「楽天大将」といっても、某ネット通販サイトのポイント還元セールだとか、何カ月間の売り上げナンバーワンとか、そういう類の話ではありません。
1968年の発表ですから、著者が「沈黙」(1966年)を発表したあと、三田文学の編集長に就任し、「演じて極楽観て地獄」の劇団「樹座」を立ち上げたころで、おそらくは乗りに乗っているころに書かれた小説です。
この小説、現在は文庫も含めて絶版になっており、確認する限りでは全集にも収録されていないため、読もうと思ったら古本屋で入手するほかありません。
けれども、周作先生の小説の中では軽小説の部類に入り、安価で手に入りますし、長編ではあるものの、遠藤文学のエッセンスが詰まった気軽に読める文体ですから、若い方で氏が好きな方にはぜひとも読んでいただきたいのです。
私もずっと講談社文庫本を大切に取っておいたのですが、いつの間にか紛失してしまい、今回読み返すために初版本を神保町にて入手いたしました。
その額、1000円(消費税別)也。
しかも帰宅途中にブロンプトンで立ち寄ったから、経費もゼロ。
こんな風に書くと、天国の著者はむくれるでしょうね。
ここからはネタバレです。
話はプロローグを別にして、小田急線と南武線が交差する登戸駅からほど近い、多摩川の河原にある公園にて、幼稚園児の男の子が誘拐されるところからはじまります。
なんだか「氷点」みたいですが、身代金は奪われるものの、子どもは無事解放されます。
警察より先に、誘拐犯と男の子が一緒にいるところに出くわした、男の子の担任である幼稚園教諭、修道女見習の朝吹志乃は、子どもの身代わりに自らが人質になって、犯人の逃避行に同行します。
このお話を縦糸に、子どもの両親である成城学園に住む有名俳優とその妻の仮面夫婦生活と性的放縦にネグレクトの話、さらにヒロインに片思いするジャーナリストの青年を横糸に話が進行します。
話自体はロードムービーと同じつくりになっています。
(成城学園前の駅も、ずいぶん大きくなりました。昔はもっとこじんまりしていたものです)
売れない小説家の卵で、誘拐犯の金山は子ども好きなものの、自らは私生児として生まれ、母子ともどもアルコール依存症者の継父から虐待を受けて育ったことを生涯怨んでおり、その復讐のために、志乃をつれたまま軽井沢→名古屋→広島→長崎と警察に追われながらの旅を続けます。
父親は石油元売り商社の社長であり、典型的なお嬢さま育ちの志乃は、当初こそ金山の脅しに仕方なく従ったものの、途中からは自分の意志で金山についてゆく決心をし、彼に自首を説得するようになります。
しまいには長崎の連れ込み旅館で、復讐を遂げるために疎ましがられた彼から「俺と寝ることができるか」と迫られ、「それであなたの心がやさしくなるのなら」と身体を差し出してまで、相手を立ち返らせようとします。
けれども、そこは周作先生、色場は一切登場しませんので、ヒロインと同じ年頃の女性でも安心して読めます(笑)
逃亡旅行の最中、志乃は金山に、自分が14歳の頃に空想していた「楽天王子」の話をします。
『その人は……みんなに好かれて、みんなが好きで、みんなを信じて、みんなから信じられて、いつも楽しそうに笑って……みんなに倖せを与えようとして、……あたし、そんな人にいつか会えないかなアと、いつも思っていたのよ。名前もつけてあげたの。楽天王子って』(『』内は「楽天大将」より。以下同)
金山は当初こそ、そんなのはセンチメンタリズムに溺れた自己陶酔的偽善だと鼻で笑って相手にしなかったのですが、心の中で志乃が語る「楽天の大将」がだんだん気になりだします。
いっぽうの志乃は、旅の最中に病気で余命が短いことがわかり、ますますひねくれて固陋になる金山の態度に、何度も見捨ててひとり帰宅しようとするのですが、そのたびにくだんの王子が志乃の前にでてきてこう呟くのです。
『(あの男について……おあげ。あなたがいなければ、彼は一人ぼっちになる)
(あなたが……もし本当の修道女になりたいなら……あの男を一人ぼっちにしてはいけない)』
のちに金山から独りよがりの慈善じゃない証拠を見せろ、俺に抱かれることで誠意を示せないのならとっとと帰れ、と迫られ、いったんは逆さクラゲを飛び出す志乃の前に、やはり楽天大将が現れて次のように諭すのです。
『(行っておやり)
(あの宿屋にですか)
(そうだよ。彼は飢えている。水をほしがる旅人のように飢えている)
(わたしはそれを自分のできる限り、与えようとしましたけど)
楽天大将は少し悲し哀しそうな顔をして首をふった。
(もう少し、必要なのだよ。彼に)』
そのうちに、金山は自分から志乃に楽天大将の話をしてくれと願い出て、ひどく喉が渇いた人が、水を貪り飲むような表情で、志乃の言葉にじっと耳を傾けるようになります。
『その人が道を歩くと、畑で働いているみんなはニコニコとして、今日はと言うんだわ。すると彼もそれを見ただけで楽しくなるような笑いをうかべて、おせいが出ますねと答えます。空は晴れて、山はうつくしく、どこかの農家で鶏がのんびりと鳴いているのよ』
『お祭りがあると、みんな彼をよびに行くの。彼がくるとそのお祭りがすべてうまく行くような気がするし、誰かが病気になったり、困った時があっても、彼のところに相談にいくの。失恋した青年や、恋人に捨てられて泣いている娘にも彼はまるでそれが自分の哀しみのように親身になって話を聞くんです』
『そうすると、ふしぎなことに、青年の表情から悩みもぬぐわれたように消え、泣いていた娘も朝の草花のように微笑みます』
なぜ話を聞いてやっただけで悩みが消えるのだと問う金山に、『だって彼に会えば誰だって、この世の中には苦労だけがあるのではなく、自分の幸福をねがってくれている人が沢山いるような気がするんですもの』と志乃が答えると、相手は皮肉な薄笑いを浮かべながら、住んできた世界が違うからそんなお目出たい空想ができるのだと言い、それでも自分の不幸な境遇を話しはじめるのでした。
(エレベーターを降りた途端にこの光景でぎょっとするのは、まだ古本屋巡りが足りない証拠です)
遠藤文学に詳しい人なら、志乃の役回りは「おバカさん」に出てきたガストン・ポナパルドの女性版なのだと気付くでしょう。
ガストンも夜の新宿界隈で、さかんに「あの男」から囁かれていましたし。
さらに、どこまでも金山の後をついてゆく彼女には「沈黙」のキチジローを、自分のすべてを与えようとする姿に「わたしが・棄てた・女」の森田ミツを見出すかもしれません。
滑稽なまでのエゴイズムにはしる脇役たちが醸し出す哀しみは、「悲しみの歌」や「灯のうるむ頃」の登場人物たちと通底し、事実スピンオフドラマのように、彼らの一部がさりげなく描かれています。
そして、読者なら誰でも、楽天大将が志乃を通して語られる著者のキリスト像だと気が付きます。
私が読んだのは中学三年生のときですから、志乃が楽天大将を想像していた年頃なのですが、修道女になろうとするヒロインに横恋慕し、敗れてイエスさまを「馬鹿野郎、貧乏神め」と罵る雑誌記者の今井に同情していた当時の自分にとっても、かなりキリストが身近に引き寄せられた気がしたのを覚えています。
さいごに、ヒロインは金山との旅を通して、この世界にはたった一つの罪しかないこと、それは絶望で死ぬことだと確信します。
旅の終着点は長崎県の島原半島先端にある街、口之津です。
わたしも添乗の際に天草へフェリーで渡るために立ち寄ったことがありますが、長閑さのなかに美しい海が印象的な、小さな港町でした。
はてさて、死期の迫った金山は志乃の献身的な愛で人を信じる気持ちを取り戻すことができるのでしょうか。
それとも恨みに駆られたまま復讐を遂げて、真黒い快哉を叫びながら病で死んでゆくのでしょうか。
拙文を読んで気になった方は、ぜひ本を読んで結末を確かめてください。
今回久々にこの小説を読み返して、志乃のような一途な気持ちに憧れていた当時の気持ちが甦りました。
どうでしょう。
遥か昔に読んだこの小説を、なぜいま突如として思いだしたのか、事情がおわかりいただけましたでしょうか。
当時登戸駅で乗り換えて通学していましたし、成城に住むクラスメートの家(そこは幼稚園の隣でした)にはたまに遊びに行きましたし、登戸で下車してゆくカトリック系女子校の女の子に片思いしていましたからねぇ。
それに別の学校ですけれど、やはり多摩川に近い、娘が通っていた女子ミッション・スクールのメール(=フランス語でいうシスターのこと)の影響で、今ではカトリック信者になってしまいましたし。
あんな事件が起こって、心が痛いほど辛くて悲しく、正直ニュースを正視できませんでした。
襲われた側の痛みや苦しみ、遺された人たちの憤りと悲しみはもちろん、襲った側の絶望という闇の深さと、そこにゆくまで誰も手を差し伸べることがなかった事実に、慄然とせざるを得ませんでしたから。
と、現代において長文は最後まで読まれることはないというテーゼに従い、プライベートな話題と思いを、後半にこそっと書いておくのでした。
最後に、「加害者の立場に立っている」とか、「被害者への寄り添いが足りない」とかいう人に、これだけは書いておきたいのです。
そもそも、当事者でもない第三者が、被害者と加害者という単純化した対立構造でとらえること自体が、直情的すぎるのではないかと。
そして、まるで勧善懲悪ドラマを見るような気分で、明らかに悪い方に個人的な憎しみをぶつけ、すぐ無関心に戻ることが、戻らない命を悼んで、社会がそういう人を出した事実に対して、本当の意味で責任を取ることになるのかと。
少し前にお年寄りの暴走事故がありましたが、「自分はいつ運転免許を返納しようか」と、今もなお考え続けている人が、どれほどいるのでしょう?
ひょっとして、「その前に運転の自動化技術が普及するから問題ない」などと、考えていませんか。
(わたしは考えてしまいました)
事故で亡くなっていった全ての人に対し、祈りを捧げてから運転をする習慣をつけられた人はいるでしょうか。
ささやかな行為でも、自分を何も変えないまま忘れるよりはましですし、それが加害者に対する同情からでも、被害者への薄情でもないことは、明白でしょう。
とはいえ、プライベートな場面で感情的になるのは自然だと思います。
旅に出ても、色々な場面、状況で喜怒哀楽は出るものですし。
けれども、ただ感情のままに生きるだけではなく、実際の旅がそうであるように、歴史も含め、世の中の出来事について、たくさんの宿題を出されているのだと感じながら、人生という旅を歩いてゆきたいと私は思っています。
この小説に登場して旅に出たくなった場所
登戸、成城学園前駅周辺・新百合ヶ丘~柿生間の踏切・長野県軽井沢町・長崎市(丸山町、福田海岸、浦上)・南島原市口之津・渋谷駅・新宿駅周辺