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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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「愛の反対は憎しみではなく、無関心」

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若いころ、よくひとりで外国へ旅をしました。
言葉の通じないよその国をひとりゆくと、色々なひとに助けてもらい、自分はひとりで生きているわけではないのだということを、実感させてもらえました。
また、たまたま出会ったひとを親切にすることが、実はそのひと自身を尊重していることにつながるのだと気付かせてもらったのも、旅の中でした。
見知らぬひとの尊厳を守ることは、結局は自己を信頼することに行きつくのだと。
その当時も、旅の恥はかき捨てとばかり、日本では決してできないような行為をする人はいましたが、私は「親切にしてもらった現地の人に顔向けができない」と思い、そういうことには首を突っ込みませんでした。
また、最初から偏見をもって接してくる人間もいましたが、そこに気を留めないようにしていました。
イメージ 1
(写真と本文は関係ありません ブロンプトンに乗って見かけた風景 朝焼け)
 
そうして他人を信用するから騙されるのだと忠告する人もいました。
たしかに裏切られたこともあります。
しかし、親切にされた数に比べれば少数でしたし、騙すより騙される方がましだとも感じました。
なぜなら、騙した人たちが決して幸せになっていない現実をみましたし、人を信じないで生きることは苦しいことなのだと実感しましたから。
あの人たちは反面教師として自分の前に現れてくれたのだと思えば、恨みをためずに済みますしね。
だから、騙されることを恐れずに、一歩前へ出ることは大事だと思います。
むかし、心の悩みについて相談に乗っているカウンセラーから、こんな話をきいたことがあります。
「自分の悩みをうちあけるために、家を出て相談機関へ足を運ぶ人はまだいい。
たいがいは、問題のある本人が出て来ないで、見かねた家族が相談に来るだけだ」と。
そのとき、自分の問題を心に鬱積させたまま、誰にも相談できずにいるひとが相当数いることに気がつきました。
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もし、自分で自分の命を絶つとか、もう自分はどうなっても構わないと自暴自棄になっている人がいるのなら、家出のようなかたちでも構わないから、旅に出てみてはどうかと思うのです。
昔から旅人の中には、少なからずそういう社会からはみ出してしまった人が存在していました。
私の子どもの頃にも、ユースホステルのヘルパーさんから、ちょっと立ち寄った農家のおじさんまで、実は若いころ色々あって…という方がいらっしゃいました。
前にも書きましたけれど、お互い不自由な英語でもって、人生の悩みについて、外国人のお年寄りとお話したこともあります。
たしかに、彼らの話から学ぶことはたくさんありました。
そして、彼らは彼らなりに、人生という旅の中で自分の居場所を見つけている様子を感じました。
私だって旅行会社に入ったきっかけは、ひとり旅しているうちに助けられて、何となくそちらへ行こうかなという雰囲気になってしまったのが本当のところです。
イメージ 3
(シャクナゲ)
 
「自殺したいのならひとりで勝手に死ね」という考え方には私も同意できません。
「ここでやられると迷惑だから、よそへ行ってやってくれる?」
富士山の樹海や北陸の東尋坊に訳あり顔でひとり来た旅人に、そんな言葉を掛けるには、かなりの勇気がいると私は思うのですが。
しかし、そこまで極端ではなくても、苦しんでいる、悲しんでいる隣人に対し、「みっともないからどこかへ行ってくれ」と冷淡かつ平然と言い放つ人を私は知っています。
こういう態度で他人と接する人が、本質的な意味で他人や社会とのつながりを良好に保っているとは到底思えませんし、そのような手合いと私は密にコミュニケーションをとりたいとも思いません。
「死にたいのなら」と条件を出したところで、既に自殺を肯定していますし、社会に対して取り返しのつかないことをした人だから、「勝手に死ね」、或いはそういう人間が生きているのなら「さっさと死刑にして抹殺せよ」と言うのなら、さらに命を差別していることになります。
ましてや、相手がどんなであろうと「お前など世の中から消えてしまえ」などと言う人間は、論外です。
イメージ 4
(ブラシの木)
 
それは、その人の傲慢以前に、社会に役立たない、害を及ぼしている人は殺しても構わないという考えを根元にもっていることになります。
どんな人でも、死ぬときはひとりで、何も持たずに往くほかないことを棚上げし、死について軽々に評価することが、結局は人間の生死全体を冒涜していることになり、自分自身の命はもちろん、弱者であっても必死に生きている人、ひいては被害にあって命を落とした人たちの生命までをも辱めていることに気がつかないのかなと思うのです。
「死にたい奴は勝手に死ね」という理屈は、「あの無邪気な連中が気に食わないから道連れに殺す」という心理と、根源的には一緒です。
生命を尊重する人に、誰かを道連れにするのしないの、あいつは死んでも構わないが、お前は死ぬんじゃないぞとか、そんな選択肢は最初から無いはずです。
イメージ 5

 
新聞やニュースでは、どうやって弱い立場の人を守るか、防衛の手段ばかりに言及していますが、どんな対策をとったところで、相手が悪意でやってくるのなら守りきれるものではありません。
そんなことより、自暴自棄になっている人、社会から隔絶されている人のところへ行って、話し相手になり、それができなければ、ただ寄り添うだけでも良いから一緒にいることの方が必要なことではないでしょうか。
誰かが自分のことを気にかけてくれていると思うだけで、ひとは無茶苦茶な行為には走らないものです。
強盗に襲われ重傷で倒れている旅人を避けて行った祭祀やレビ人は、現代の日本でも多数派なのだと思います。
そういえば、1981年にマザーテレサが来日した際、コルカタの貧民街から来た彼女に、テレビアナウンサーが「発展し、豊かになった日本をご覧になった感想はいかがですか」とやや自慢げに訊いた場面を思いだしました。
彼女は、「確かに経済的には豊かな国だと思いますが、心の面で困っている人、助けを求めている人が見えませんか?(私には見えます)」という趣旨のことを答えていました。
アナウンサーが拍子抜けした表情をしていたのが印象的でした。
いわゆる、「愛の反対は憎しみではなく無関心です」というところでしょう。
イメージ 6
(夕焼け)
 
自殺をしようとしていた人が、誰かに声を掛けられて思いとどまることがあるように、犯罪を抑止するのも、武器や防具や猜疑心ではなく、相手のことを気遣うコミュニケーションだと思います。
そして、相手の立場に立てる人というのは、「苦境に育った人でも立派になった人は大勢いる」などと人を切り捨てて、自分はそんな行為はしないと根拠のない自信を持っている人間などではなく、実際に虐げられたり弱い立場に立ったりしたことのある人、あるいは自分も同じ境遇にあったなら、孤立してしまったら同じようにならないという保証はないと、想像力を働かせることのできるひとだと思います。
こういうと、必ず「お目出たい考えだ」という人が出てきますが、もし寄り添うだけで、八つ当たりの暴力で傷つく人が減るのなら、全地球よりも重いという生命をひとつ救えるのなら、ずっと「お安い御用」なのではないでしょうか。
わたしは、よその国で何の資格もない、見知らぬ一旅行者だった私に関心を示し、親切にしてくれた人たちのありがたみを知っているから、誰からも関心を持たれないことの辛さは理解しているつもりです。
若い時なら、その若さで人を魅了し、動き回っていていた人も、年をとってその若さがなくなった時、誰もが心のどこかで「自己の生きる意味と価値」を問い直さねばならなくなり、その時、自分では意味を見いだせず、他人からも価値を見出されないという恐怖と向き合わねばならなくなりますから。
ここまで書いたら、中高生の頃に読んだ遠藤周作先生の小説を思いだしました。
今度の読書感想文で、その小説をご紹介しましょう。

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