(前回からのつづき)
〇読んでみて読みやすい本を選ぶ
文章の好みは人それぞれだと思いますが、試しに読んでみると分かります。
ある人は簡潔な文章を好むし、逆に同じことを様々様々に言い換える文章が好きな人もいるでしょう。
私は鎌倉幕府滅亡時のある出来事について、小説ではどう描かれているか興味があって、複数の本を比べたことがあります。
山岡荘八の「新太平記」は、登場人物のセリフが多く、臨場感のある劇画でもみている感覚で迫力はあるのですが、日時や天候、地名をあまり描写されておらず、芝居の脚本みたいで好きになれませんでした。
その点吉川英治の「私本太平記」は、当時の生活の様子や、土地の風土がいきいきと描かれたうえに、心情を踏まえた登場人物の会話があって、少し読んだだけなのにすぐ引き込まれてしまいました。
だから「三国志」は夢中になったのに「徳川家康」は挫折したのかも(笑)
「話し言葉」と同じように、読者の琴線に触れる「書き言葉」があって、作者それぞれに文章の癖のようなものがあるのだと思います。
私は「お前の文章はしつこい」といわれるのですが、詩や歌のように短く淡い文章の中に気持ちを込めるより、これでもかとぐいぐい押してくる文章の方が好きなのです。
だから主義主張はともかく、吉田松陰が残したようなような力のある文章は読んでいて、いいなぁと感じます。
お酒でいったら端麗辛口の日本酒よりも、多少甘くてもジーンと来るスコッチの方が好きとてもいうか…。
どちらが良いとか悪いとかではなく、また読んでいるうちに好みも変わりますし、内容によって適不適もあると思います。
たとえば、紀行文なのに自分が出会った人とのやり取りばかりで、その土地の風土や景色の記述が全くなかったら、その場所へ行ったことのない人にとって、想像力で補うのは少し辛いですよね。
読んでいてしっくりくる作者に出会ったら、その著者の本を片っ端から読み漁るというのも、読書を広げるひとつの方法かもしれません。
それが司馬遼太郎みたいに作品の数がたくさんあると、隅から隅までとは行かないかもしれませんが、自分も時々作家にはまります。
そうして、そこから少しずつ、自分には合わないなと思うような文体の作家にも手を広げていったらよいと思うのです。
たとえば、島崎藤村など話のテンポがのろいし、テーマも自分の考えとは合わないので好きではないのですが、「夜明け前」を全部読み終わる頃には、あの「~するのは誰それだ」という独特の人物描写の魅力がなんとなくわかる気がしてきます。
また、三島由紀夫は文体が透きとおりすぎていて、薄気味悪く感じるのですが、最後の方でどんでん返しがあるような話の場合、かえってその不気味さが活きてくるのだと思います。
読みにくい本も、噛みくだいてゆくうちにだんだんと味が分かってくるというのも、読書の楽しみだと思います。
そのためにも、最初は自分の好きな作家を見つけることではないでしょうか。
〇読書が広がる本を選ぶ
巻末に参考文献が並んでいる本、文章の途中でも引用は出典が明示されている本を選ぶと良いと思います。
どんな本でも、他の本を全く参考にせず書いた本なんて、一部の天才肌の作者を除いてあり得ないと思います。
大概は、別の本にインスピレーションを受け、或いは誰かの文章を読み、または何かに触発されて、思うところ、感じるところを文章にしようと筆を執ったのだと思います。
小説などの場合、さすがに作者本人がネタ明かししていることはありませんが、別の人の書いた解説や、どこかの講演録にうっかりポロリと話していることがあります。
また、同じジャンルで読書をすすめてゆくうち、「昔読んだあの本はこの本が下敷きになっているのではないか」と思うことはよくあります。
そうして、いままで別々の存在だった作者同士が結びついたりするのです。
たとえば解説書などの場合は、ちゃんと原書も一緒に購入して、引用箇所ごとに原書にあたることをお勧めします。
法科の学生が基本書を読むのに条文が出てくるたびに六法をひくのは当然ですし、聖書註解の本を読むのに、脇に聖書を置かないで読むことはあり得ないのと同じです。
また、専門用語の多い本なら、できればその道の辞典を古本でもいいから手に入れて、外国語の学習と同じように、分からない単語が出るたびにひいて読んだ方が、あとあと楽になります。
というのも、同じ分野のより深い内容の本を読んでゆくときに、かなり手掛かりが増えるからです。
もし注釈の中に引用文献があれば、面倒くさがらずにそれもひも解いてあたってみると、読書の幅はさらに広がります。
〇同じテーマについて集中して本を選ぶ
同じ作家の本を片っ端から読むのとは対照的に、同じテーマについて書かれた色々な作者の本について、ある一定期間集中して読んでみるというのも、読書の愉しみのひとつです。
特に普遍的な問題、たとえば宗教に関してなら、その宗教の聖職者の本ばかりでなく、歴史学者、哲学者。民俗学者、翻訳者、小説家、批評家ときには経済学者や数学者など、様々な国の、色々な立場の人が本を著しています。
たとえ対立するような意見であったとしても、自分の意見は置いておいて、なるべく素直に本を読みます。
こうした読書を続けると心を開く訓練になり、物事を立体的、複眼的に眺めることができるようになりますし、ひいてはテーマについてよりリアルに感じ、身近に引き寄せて考えることができるようになると思うのです。
そしてその中から、読者がいちばんしっくりきて納得のゆく本を選んでゆけばよいと思います。
まずいのは、自分とは違う意見だからと言って、頭から偏見というバイアスをかけて読書するとか、読みもせずに本の内容を批判するような態度をとることでしょう。
確かに中には対立する意見を攻撃するだけのために書かれたような本も、ないわけではありません。
けれども、そういう本ですら作者がどうしてこのような本を上梓したのか、その背景を考えてみれば、読者として学ぶことは可能です。
これは、議論や討論ではできない、読書の利点だと思います。
色々な角度から本を読めば読むほど、ことはそんなに単純ではないことに気が付いて、軽率な批判は控えるようになるものだと思います。
短文投稿サイトやSNSに直感的な意見を書き込んだり、それらを読み漁ってリツイートしたりしている人を見かけると、自分なら寸暇を惜しんで様々な本を読むのにと思ってしまうことがあります。
他人の問題なんですけれどもね(笑)
以上のようなことに気をつけて読みたいテーマや目的がはっきりしたら、私がやっていることははまずアマゾンでネット検索して、該当の書籍について商品の説明(内容紹介)を読むことです。
ここで、ビビッとくるのは、目次がある書籍で、自分の知りたいテーマにドンピシャの見出しがあったような場合です。
つぎに書評(レビュー)をみるのですが、書いている人の数が多い本から優先的にみてゆきます。
それだけ多くの読者に読まれているということは、たくさんの人の批評にたえられる本ということになりますから。
ただ、専門書の場合はおのずから読者が絞られているはずなので、レビュー数が少なくてもちゃんと確認します。
もちろん、アマゾン以外のレビューもあるのなら読みに行きます。
レビューを読む際に注意することは、レビュアーの文章の中に自分が知りたいようなキーワードやセンテンスがはいっているかどうかです。
入っていれば、購入候補に入れます。
なお、知らない著者の略歴や地位などは、この段階ではなるべく読まないようにしています。
それで偏見がかかるともったいないので。
次に、大型書店(私の場合、週に3日新宿へゆくので、紀伊国屋書店本店)の在庫を確認します。
在庫があれば、書店のサイトの中にある「欲しいものリスト」に登録します。
在庫が無い場合(古い本でレビューが全く見当たらない本も含む)は、「日本の古本屋」や「BOOK TOWNじんぼう」というサイトで在庫検索し、都区部や自分の住んでいる横浜に近い場所の書店に在庫がある場合は、チェックしておきます。
近くを通るような場合、店舗はあるか、あれば在庫をみせてもらうことができるか電話で尋ねておきます。
そうしてから、休みの日や仕事帰りのときに、その本の実物を立ち読みにゆきます。
紀伊国屋書店本店の場合、何階の売り場のどこの棚にあるかまで教えてくれるので、便利です。
立ち読みでは、前述したようなことを中心に、本の中身を拾い読みしてみます。
まさに喉から手が出るほど欲しくなる本もあれば、まったく空振りの本もありますが、この自分で手に取って眺めてみるという過程は、すごく大切だと思います。
そうまでして意中の本に触れてみても、買わないことは多々あります。
経済的に余裕が無いこともさることながら、「この本はあっちの本を読んでから」と思うような場合です。
そのような場合は、ネットの「欲しい本リスト」にはのせておきます。
ただ、それでも古本で全国的に在庫が全然ない場合には、買うこともあります。
絶版本の場合、一期一会かもしれませんから。
なお、困るのはレビューもなく、本屋に在庫もなく、ネットにだけあがっている本です。
こういう場合は、読み終わってよほど気に入った本に何度も引用されているようなケースを除いて、ネットショッピングでの衝動買いは控えるようにしています。
手を広げ過ぎても仕方ありませんから。
ただ、欲しい本のリストにはのせておいて、古本屋さんを覗いているときに安値で見かけたような場合は、買います。
そのような機会は滅多にはありませんけれども、たまに「おおっ」と思うことがあるので、古書店覗きはやめられないのです。
こうして購入して家に持ち帰った本ですが、買った順に読んでゆくわけではありません。
一定の割合で、読まないまま本棚に収まってしまう本、読みかけのまま途中で放置されてしまう本もあります。
いっけんすると無駄のようですが、そんなことはありません。
ずっと後になって何気なしにその本を開いたら、夢中になってしまって2日から3日で全部読んでしまったというようなことがよくあります。
それは、本との出会いも、読書の機会も、自分ではコントロールできない「時機」というものがあるからだと思います。
同じ作者の本について、高校生の時に課題図書で読んだらものすごくつまらなかったのに、大人になって読んでみたら全然印象が違って、はまってしまったというようなことがあるのと一緒です。
だから、本は買わなくても、借りなくても、書店や図書館に足を運んで本棚の背表紙を眺める行為が潜在的な動機になり得ますし、とくに育ち盛りの子どもがいるような家は、本棚があってその前で本をパラパラめくって読むような椅子なりスペースなりがあることが大切だと思うのです。
読書とは、本を開いて読んでいる時だけでなく、日ごろからアンテナを高くしてくれるものなのでしょう。
そのアンテナは、旅に出たときに大活躍すると思います。
いま巷では宿題を出さない学校が話題になっていますが、ねじり鉢巻き姿で机にかじりついて演習問題を解きまくるとかより、重要なことだと思います。
と徒然なるままに本との出会い方について書いて参りましたが、最後にお約束の一言を書き添えておきます。
ブロンプトンと公共交通機関を使うと、書店めぐり、図書館めぐりがえらく捗ります。
そのわりには、たくさんの本は積んで走れないし、電車に乗りにくくなるので、お財布には優しいですよと。
(おわり)