本を読みましょうといっても、何を読んだらいいのか分からないという人は大勢いらっしゃると思います。
そして、読書というのは、ある程度の量を継続してこなさないと深まってゆきません。
たまに読むけれど、後が続かなかったり、忙しかったりつまらなかったりで、途中で投げ出し、そのままになってしまう人も、読書離れの裏にはいらっしゃるのではないでしょうか。
きっかけとして、流行の作家や賞をとった作品など、本屋さんに平積みされている皆が読む本を読んでみるとどうなるでしょう。
それこそ、テーマの内容が心に響いたり、響かなかったり、文体が読みやすかったり、好ましく思えなかったりと、人によってまちまちでしょう。
下手をすると、皆が読んで感動しているのに、何も感じない私はおかしいのではないか?と考えてしまう人がいるやもしれません。
かといって、人から「これ面白いから読んでみて」と言われた本は、読む気がなくなるという経験がおありの方も、これまた沢山いらっしゃるでしょう。
(私がそうです)
そこで、今回は読者自身にとっての良書の探し方について書いてみたいと思います。
写真は通勤途上に見かける風景(街の本屋さんを含む)。
今回も例によって本文とは関係ありません。
まず、大前提として読者の側で最低限はっきりさせておかねばならないことがあります。
それは、何についての本を読んでみたいのか、という読者の希望です。
ただ漠然と何か読みたいでは、ネットサーフィンになってしまいます。
希望は、細かすぎても、逆に大雑把過ぎてもいけません。
ちょうど良い塩梅というものがあります。
今はインターネットで情報がすぐに拾える時代です。
たとえば、ソフトやアプリの動かし方を知りたいのなら、それ相応のキーワードで検索をかければ、自分の欲しい情報へ容易にアクセスできます。
マイクロソフト・ワードでのルビやピンインの打ち方や、ヘブライ文字だのサンスクリット語だのの出し方を忘れてしまっても、昔のようにマニュアル本を探しに行く人は、今はいません。
かつて本屋さんで売られていた雑誌やマニュアル本の類が衰退したいちばんの原因はネットだと思います。
しかし、アバウトすぎるというのも問題です。
私の例だとお寺を手伝っている関係から、仏教について本が読みたいわけです。
しかし、ただ仏教について知りたいとか、○○宗について知りたいでは漠然とし過ぎています。
「仏教」というキーワードで検索したなら、それこそWikipediaに膨大な量の情報が出てきます。
それらをリンクも含めて隅から隅まで読んでも、何だかわかったようなわからないような、百科事典の中を、広く浅く掘り下げてウロウロした感覚になります。
かといって、特定の経典の現代語訳を読んでみても、予備知識が無い状態だと全くピンときません。
それが、「そもそもお釈迦さまは何を悟り、それをどう弟子たちに伝えたのか」とか、「密教が出てきた歴史的背景とは何か」とか、そこまで興味を具体化できれば、どんな本を手に取ったらよいのか、探す手がかりに見当がつくようになります。
(とはいえ、お釈迦さまやその後の仏教の流れについてある程度知識がないと、そこまで具体化できないわけで、とりあえず分からないままで構わないから現代語訳や伝記を読んでみるとか、宗派にとらわれないやさしい解説書や、歴史を俯瞰できる本を読むとか、それができないなら、専門の知識を持った人に要点を訊いてみる必要はあると思います)
いちばんまずいのは、「知識や教養をつけたいから」という動機だろうと思います。
中学生や高校生がその本を持っていると(読んでいなくても)箔がつくからとか、異性の前で格好いいからというのなら、それは年齢相応の動機で、立派な読書のきっかけだと思いますが、いい歳をした大人が蘊蓄をため込むために読書をして、はたして続くものでしょうか。
先日本屋さんで「一年で聖書を読破する」という本を見かけました。
たしかに聖書は世界一のベストセラーかもしれませんが、あんなもの(といったら教会で怒られてしまうかもしれませんが)手ほどきもなしに最初から最後まで通読しても、文章が平明なだけに、それこそ分かったような気になるだけです。
かつて聖書を(紅衛兵が挙げる毛語録みたいに)振りかざす人を見て、私はドン引きしたことがあります。
それはキリスト者としては高慢すぎるし、だったら、世界中にある聖書解説の本は何なのかということになります。
法学部の一年生が、自分の法律知識のみで訴訟を提起するようなものです。
あっ、毛語録のたとえとか、古すぎました?
分からない人は、YouTubeにあがっている80年代のドラマ「大地の子」の第4話を見てください。
それにしてもこのドラマ、自分が中国を旅していたころに撮影されたもので、中国語の学習にはもってこいの素材ですが、あの時代によくこんな描写を当時の中国電視台がゆるしたなと思います。
文革の記憶も生々しいし、ヘタすると共産党批判になってしまいますからね。
それに当時の中国って、今よりずっと共産主義的に真面目な人が多かったですから。
それが災いしているのか、名作なのにいまだメインランドでは放映されていないのだとか。
日本でも、70年安保などで高校生が「造反有理」とか叫んでいたらしいですが(笑)
でも、自分が若いころ洗礼を受けるのを躊躇したのは、教会の周囲に同じ年頃のそういう人たちを見かけたからです。
宗教だろうと、イデオロギーだろうと、理想にもえる若者の存在は理解できますが、原理主義的なのはちょっとついてゆけませんでした。
話が脱線しました。
反語的にいえば、読書というのは、忘れるためにするのではないかとすら感じています。
だったら意味ないじゃないかという人は、学校ではテストの成績が優秀だったのかもしれませんが、本を読むことの本質について考えてこなかったのではないかと思います。
あるいは仕事のためだけの読書なのかもしれません。
いくらたくさん本を読んだところで、覚えられる量など凡人にはたかが知れています。
またピンポイントで知りたい情報にアクセスするなら、前述した通りネットで調べれば済みます。
博識になるための読書ばかりするよりも、知ったことを実践反復した方がよほど記憶に残り、かつ身につきます。
そうではなく、良書とは、読んだはなから内容を忘れようとも、読者の心になにがしかの深い痕跡を残すものです。
本来の読書とは、いわば心の旅なのではないでしょうか。
実際の旅行について、何年もの前の旅程を事細かに記憶し続けても、あまり意味がありません。
ただ、記憶に残る景色や情景というのはあると思います。
そして、目的地を決めなければ、駅までたどり着けねば、切符の買い方が分からなければ、列車に乗って旅には出られないのも事実です。
こうしたことを踏まえたうえで、自分が興味を持ち、或いは疑問に思っていることについて説明を与えてくれ、かつ視界を広げ、心を開くのに役立つ良書と出会うには、どの点に注意してどこを探して選べばよいかを考えてみました。
〇テーマが明確になっている本を選ぶ
小説などの場合、目録や裏表紙に書いてある内容紹介の短文を参考にします。
たとえば、私が大学生の頃法学系の学生によく読まれていた社会小説「青春の蹉跌」(石川達三著)は、以下のような文章です。
「生きることは闘いだ。他人はみな敵だ。平和なんてありはしない。人を押しのけ、奪い、人生の勝利者となるのだ—貧しさゆえに充たされぬ野望をもって社会に挑戦し、挫折した法律学生江藤賢一郎。成績抜群でありながら専攻以外は無知に等しく、人格的道徳的に未発達きわまるという、あまりにも現代的な頭脳を持った青年の悲劇を、鋭敏な時代感覚に捉え、新生面を開いた問題作」
蹉跌=「つまずき、しくじり」と、意味が分かっていれば、何となく筋が見えます。
次に学術書などの場合、前書きや冒頭にこの本はどういう目的で、また内容や本全体の構成をかいつまんで説明しているケースが多いと思います。
自分の知りたいことが、現在の自分の知識レベルで読めるかどうか、目次や前書き、興味のある項目を少し読んで判断します。
哲学書や古典のように、最初から何を言っているのか分からない場合は、巻末の「解題」や「解説」を参考にすることもあります。
また、最近はやりの「○○を読む」というような解説書を先に読むのも良いかもしれません。
〇著者が本を書いた動機や目的を考えて本を選ぶ
残念ながら、本の中には著者が名刺代わりに書いた本があります。
最も酷いのは、単なる自己満足のために書かれた本です。
こういう本は、作者が主題よりも自己を強く押し出しているのですぐわかります。
自費出版された自伝小説などが良い例でしょう。
しかし、それ以外にもテーマがはっきりしているのに、何を主張しているのか分からない本があります。
代表的なのは、作者が大学の講座を持つなどして、テキスト代わりに書かれた本です。
そのような本は「わかる人にわかればよい」とか「授業で使いやすいように」というスタンスで書かれているため、一般の読者向けではありません。
もっとも、その講座なり講演が素晴らしければ、編集者の側から「これはぜひ本にしましょう」とお声がかかる場合があるようですが、そういう本は有名ですからすぐわかります。
あとがきなどにそのような事情を経て出版された旨が書かれています。
(つづく)