亀山宿というのは、初めて訪れると地形が把握しづらいのです。
電車や車で行かずに、旧東海道を江戸方面からたどってきたら、なおさらです。
というのも、お城や本陣のある宿場中心部は丘陵の尾根の上にあり、庄野宿の方からくると、緩い坂を少しずつのぼってくるため、丘の上にいるという感覚が湧きません。
なのに、現代の玄関口にあたる国道1号線やJR関西本線の亀山駅は丘の崖下の鈴鹿川沿いにあたる低地にあり、京に向って亀山宿を過ぎると再びそちらへ下ってゆくのです。
本陣を探して商店街を歩いていると、店と店の隙間からずっと下にある現在の街が見えますし、道中お城と近接する辺りには池の側という、それって本当に池の名前?(お城から見て池の側だからでしょう)という、わりと大きな山の上の池=濠があって、ますますここが丘の上なのか下なのか混乱してしまいます。
なんだか、城下町としての宿場だけが山の上に取り残されたような恰好ですが、市役所はちゃんと山の上の方にあります。
これまで旅してきた旧東海道の宿場でこれと似たケースは岡崎でしょうか。
駅や現代の街は宿場とは丘を下った川をはさんで反対側にありました。
もっともあちらは丘の高さが亀山よりずっと低かったわけですが。
関東近辺で同じような地形の宿場町というと、甲州街道の上野原がそうかもしれません。
国道は旧道同様に河岸段丘の上を通っていまして、高速道路はその縁、JR中央線の駅はそこからかなり下った河原に近い場所に駅があります。
亀山という地名の由来は諸説あって、動物の亀にちなむお話が多いのです。
丘の形が亀に似ているからというのがその典型でしょう。
やや西にある忍山が神域だから神山、高い場所だから上山、地すべりした土地=「噛み山」等が亀山に転訛したという説もあります。
たしかにお城直下の池の側のあたりは、明らかに斜面崩落してできた谷間のような地形をしているので、最後の説も有力だと思います。
江戸口門跡(34.853507, 136.458300)で突き当たった旧東海道は、右折して東町交差点(34.853625, 136.457181)をこえて東町商店街へと入ってゆきます。
商店街は両側にアーケードがついているタイプ。
右手の路地を入った先には真宗大谷派の法因寺(34.854633, 136.456009)と、真宗高田派の福泉寺(34.854629, 136.456803)があります。
法因寺はもと真言宗寺院で、15世紀に蓮如上人が滞在したころに現在の宗派になりました。上人はこの寺で南無阿弥陀仏の名号を掛け軸にしたためたのですが、のちにお寺が火災にみまわれたとき、この掛け軸だけが宙を舞って柿の木にひっかかり無事だったことから、柿の木名号と呼んで大切にされているそうです。
福泉寺は創建年代が不明ながら、15世紀半ばには天台宗から改宗したという古刹で、楼門の上に唐破風が、屋根の両脇には鯱がのっているのは、この寺院の寺格の高さをあらわしているのだそうです。
アーケードに戻って左側をゆくと、左側にトイレのある東町ふれあい広場(34.853576, 136.455858)があり、全く判読できない木製の高札風看板が立っています。
2007年当時、この商店街には一軒ずつ木製の屋号札が架かっており、この看板には2001年に「きらめき亀山21」という団体が、宿場の街並み保存のため、各店舗前のアーケードに屋号を掛けた旨を説明していたのでした。
しかし他の宿場で見られるような、檜や樫などの厚い板に、表札のように字を浮き彫りにしたものではなく、杉材に単に墨書したものだったので、数年のうちに字が消えて単なる板切れになってしまい、現在は撤去されている様子です。
ふれあい広場の一番奥が崖の縁になっており、見おろすと国道沿いにならぶビジネスホテルやコンビニ、ファストフード店、その向こうにはJRの亀山駅が見えます。
旧市街とは対照的な新市街です。
さらに商店街を西へ進みます。
江戸門口跡から380mの左側、道をはさんではす向かいに亀山市市民協働センターのある、元商店、現在は学童施設と外国人向け日本語教室を兼ねている建物のある場所が、亀山宿唯一の本陣だった、樋口本陣跡(34.854609, 136.454468)です。
よくみると、アーケードの柱にここだけ木札が残っています。
亀山のような城下町の宿場における本陣は、参勤交代の際に宿泊すると当地の大名との間で儀礼的な仕事が付加され、しかも大名同士の格や将軍家との遠近によって、その挨拶も作法が違ったため、大名行列の宿泊はできるだけ城下町を避けたと本で読んだことがあります。
亀山宿の本陣が一軒きりなのも、そういう理由からかもしれません。
なお、この学童施設になっている建物は、かつてシャープ・ドキュメント・ソリューション・スポットという、かの企業のオフィス複合機の販売店でありました。
亀山といえば、液晶の工場を思い浮かべる人も多いかと思います。
自分が歩いて通過した2007年当時、この東町商店街はシャープの企業城下町のような活気がありました。
その後、あとからできた堺の工場とともに、技術革新による産業構造の目まぐるしい変化とグローバリゼーションの荒波にもまれ、亀山の街は灯が消えたようになったり、また人が増えたりと、浮き沈みを経験し、今は中国企業の元で働く外国人従業員が殆どといいます。
その日系外国人労働者も昨年末に大量に雇い止めされたそうで、ブロンプトンで何回か来た際に、かつてのような賑わいを見たことは、国道やJRの駅周辺も含め、一度もありません。
あれから10年以上たち、亀山市の旧東海道沿いには看板をおろした空き店舗も増えました。
学童保育と日本語教室となったかつての日本製品販売店は、そうした環境の変化を象徴しているのかもしれません。
仮に自分が外国に移民として働きに出たなら、行った先の土地の文化を尊重し、自分もその国の人間になるべく努力するだろうかと考えてみるとどうでしょう。
私なら、日本人としてのアイデンティティーを放り投げてしまっては、その国の人間になることはできない気がします。
それでは自分の立ち位置がぐらぐらしてしまうので、日本人としての自己の出自は大切にしつつ、その国の文化を学ぼうとするのではないかと思います。
むろん、ただ仕事を得て食べるため、家族を養うためだけに外国に働くという人が大多数なのは承知しています。
しかし、その土地の文化や歴史が継承されなくなって、その場所を愛する人もいなくなってしまったら、地域としての価値はどうなってしまうのでしょうか。
旧東海道の静岡や愛知県下の外国人労働者が多い街でも、同じような不安を感じました。
外国から移民を受け入れなければやってゆけないというのなら、彼らが日本を次なる故郷としやすいように、日本人としてもやらなければならないことがあるのではないかと、そんな風に思うのでした。
そんなことを考えながら、本陣跡のお隣に目をやると、「市民ショップねこの館」という看板がかかっています。
ちょうど協働センターの真正面にあたるこのお店は、前述した「きらめき亀山21」さんがやっているお店みたいです。
ホームページをみると、「亀の細道」とか「亀山100景」など、旅人にも参考になりそうな情報があがっています。
亀の細道の詳細を追ってみますと、棚田や梅林、桜の名所、古道巡りに現役の木造小学校、鉄道遺跡など興味をそそられるテーマが並んでいます。
ブロンプトンを使った旅をしていると特に思うのですが、バスや車を対象とした観光ガイドブックよりも、現地の住人の情報の方が、きめが細かくて小回りが利く自転車で訪問するのに向いているディスティネーションが多いのです。
今後はこのような地元の民間やNPO法人と協力した旅というのが、じわじわと増えてゆくのかもしれません。
樋口本陣跡から60mさきの江ヶ室交番前信号(34.855110, 136.454006)で、旧東海道は左折します。
そのまま直進すると亀山城址に入ってゆくわけで、次回はお城の説明をしてから、さらに亀山宿の中を京都方面へ歩を進めたいと思います。