その1で書いた通り、横浜駅周辺というのは商業の街であって、買い物をする場所はたくさんあっても、観光する場所はあまりないのです。
その中で、あえて挙げるとすればやはり旧東海道沿いになります。
桜木町、みなとみらいから、関内、元町中華街、山手にかけては観光の街ですが、あちらに歴史を求めるにしても、関東大震災や横浜大空襲で丸焼けになった過去がありますから、とくに低地には古いものが殆ど残っていません。
それに比べて、旧東海道は人の往来の歴史が長いので、史跡を見学するならこちらなのです。
こんなところにも、旧道散策のメリットがうかがえます。
まずは東北口を出て東海道本線、京急線に沿って川崎方向へ戻り、青木橋に向かいましょう。
青木橋までは500mたらずです。
青木橋のたもとには京急線の神奈川駅があり、ここが品川駅すぐ南の八重山橋以来の、旧東海道と京急線の交差点になります。
(交差するのはこの2か所限りです)
そこから宮前商店街の坂道を下り、洲崎大神(すさきおおかみ)に自転車をとめます。
旧東海道をはさんで神社の正面は、横浜港への渡し船の船着き場だったことは以前述べました。
この洲崎大神は源頼朝が安房の国の一の宮である安房神社(館山市内)から御霊を遷して開いたと伝えられています。
鬱蒼と茂る木立の中のお社は、ここが横浜の中心部であることを疑いたくなるほどの環境のなかにあります。
また、ここが背後から続いてきた丘陵の、海に落ち込む先端部分で、品川宿の北、御殿山あたりと環境がよく似ていることがわかります。
洲崎大神から少しだけ青木橋方面に戻り、神社の裏手にある幸ヶ谷(こうがや)公園にのぼってみましょう。
狭くて急な坂道をグイグイのぼってゆくと、コミュニティセンターの下をくぐり、台地上にある公園に到着です。
神社と反対側をのぞくと、JR線や京急線の線路、第二京浜国道が掘割の中をはしっており、鉄道や道路開通前は前々回に立ち寄った本覺寺と尾根続きであったことがわかります。
本覺寺のところでも触れましたが、ここには権現山城というお城があって、北条早雲方に寝返った相模守護代である上田政盛が、関東管領上杉方の2万の軍勢に包囲されて落城しました。
現在上部が平らになっているのは、この山城跡の土を神奈川台場(幸ヶ谷公園の東、第一京浜国道の向こうにある台場公園付近に存在しました)建設に使ったからで、それ以前はもっと標高が高かったそうです。
そのほかにも、幸ヶ谷公園には表忠碑もあります。
戦没者の慰霊碑です。
日清戦争が三名、日露戦争が二十一名、これが左の明治43年に建立された柱です。
そして真ん中の大きな柱には日中戦争、第二次世界大戦の戦没者をあわせたもので、案内板には支那事変百二十名、第二次世界大戦一千三百五十七名となっています。
時代が進むにつれて犠牲者が数倍から十倍以上とねすみ算式に増えて行っているのは、兵器の向上だけではなく、戦争が質的に変わっていることを示しています。
いま、日本の権益を守るために軍隊が必要だということをさかんにいう人がいます。
必要であったとしても、それを使ったらどういうことになるのかを具体的に考える人はあまりおりません。
抑止力を目的としての兵器であることを謳いながら、持っていれば使いたくなるということについて、あまり真剣に考える人はいません。
兵器を持つ者同士の緊張に基づいた平和というものは、本当の平和なのでしょうか。
近隣の諸国を見ていて、そう思います。
幸ヶ谷公園の北側に下って鉄道線に沿って青木橋へ戻りましょう。
幸ヶ谷公園にのぼるには、こちら側からの方が緩くて楽かもしれません。
青木橋から旧東海道を辿り、今度は駅の西側にある浅間下へ行ってみましょう。
交差点を保土ヶ谷側へ渡ってすぐの浅間神社には、富士の人穴と呼ばれる横穴があって、富士山まで続いているという伝説があることは、旧東海道の旅で触れたとおりです。
なんでも江戸時代の噴火の際に煙が出たとかいう噂が。
神社へは旧東海道とは裏の北側からなら自転車で登れます。
少し小高い境内からは、ランドマークタワーをはじめ、みなとみらいのビル群が望めます。
境内にはもうひとつ、誠愛剣法発祥の地という石碑が建てられています。
これは1970年当時、誠愛剣友会がこの地に設立されたことを記念しての碑です。
礼儀正しく誠実で、愛のあふれる人になって欲しいと、子どもたちに剣道を教える会ですが、ちょうどこのころ、インドのネルー首相が娘のインディラ(のちのガンジー首相)に宛てた手紙の中に、「誠」と「愛」について述べたものがあって、日本でも話題になりましたから、そこから来ているのかもしれません。
現在の東急東横線は、横浜駅が終端です。
しかし前にも書いた通り、ほぼすべての列車がみなとみらい線に乗り入れるという状況ですから、もし東京方面から沿線散歩をしてきて、ブロンプトンをたたんで電車で帰る場合には、できれば現在の列車の終点である元町・中華街駅まで行った方が座って帰れます。
ブロンプトンをつれての場合、どうしてもロングシートの端に座る必要があるため、終点から乗る方が有利です。
それに、渋谷方面からはるばるここまで来て、海も見ずに戻ってしまうというのは、勿体ない気がします。
そこで、元町・中華街駅までの走り方を続きでご案内しようと思います。
なお、かつての東横線に沿って高島町、桜木町と走ってみることも考えたのですが、廃線の跡地はいまだに整備されておらず、すでに整備された東白楽から反町駅南のトンネルまでの「東横フラワー緑道」については、かつて本ブログで触れた通り、横浜市の道路行政を司る土木課が、自転車に対して悪意ともとれる締め出しを行っているため、これ以上辿ることはやめたいと思います。
実は廃線跡に限らず、横浜市における公園からの自転車締め出し、自動車優先政策はそこかしこに感じられます。
たとえば、市も関係している「浜チャリ」は、横浜駅構内にデカデカと広告をうっている割には、その横浜駅を押し歩きで東西に通り抜けることもかないません。
もし、横浜駅下を通り抜ける通路を自転車が抜けられなければ、南は県道13号の道路橋を、北は青木橋を渡る以外に方法はなく、しかもどちらの橋も渋滞で有名な場所です。
また、西口も東口も駅前は自転車で通り抜けられるような構造にはなっておらず、特に西口の場合、大きく迂回しなければなりません。
自分などはブロンプトンをたたんで曳いて、駅の通路を通り抜けるという手段がありますが、そんな面倒くさいことをしても、駅に近寄らずに迂回して走るより時間も早く安全なのが現状です。
こんな風に、以前よりどんどん自転車環境が悪化の一途を辿っている状況で、私は横浜の自転車案内に興味を失ってゆきました。
いま、あちこちで悲惨な自動車事故が起きている中で、時代に逆行するような市の行政には首を傾げざるを得ないのですが、それも彼らの問題ですからこれ以上は触れまいと思います。