(その1)からの続き![イメージ 1]()
![イメージ 2]()
![イメージ 4]()
![イメージ 3]()
![イメージ 5]()
![イメージ 6]()
![イメージ 7]()
![イメージ 8]()
![イメージ 9]()
![イメージ 10]()
![イメージ 11]()
![イメージ 12]()
![イメージ 13]()
中庭はみているだけで涼しくなります。
特にあの日影模様の石手水。
狭い空間をこれだけのもので、光の演出までするとは、恐れ入りやしたの言葉もございません。
こちらはお殿様の御座所です。
私は権力者にはあまり興味が無いのでスルーしそうになりましたが、なんで左側の障子(庭正面)の桟が朱色なのでしょう。
晩になって、あそこから何が登場するのか?
ちょっと淫靡な想像をしてしまいました。
もしかしたらただの縁起担ぎかもしれませんが。
お庭というと京都のお寺が有名ですが、こうした宿屋のお庭もどうしてなかなか。
これだけの空間で明るくて雄大な自然を感じてしまうのは私だけでしょうか。
植木のよりずっと背高の蔵が、逆にかわいらしく見えます。
なるほど、リュウノヒゲと白い敷き石はあのように腰壁とあわせて使うわけだなどと、感心してしまいます。
お殿様用の雪隠。
屋根がついていて、大小別々の豪華仕様でした。
しかもちゃんと手水が廊下側にあります。
携帯用の東海道名所図会。
この帳面を片手に景色を見たのでしょう。
今はナビの地図をみても、その土地やそこを流れる河川、はるかに見える山のいわれを調べる人はほとんどいません。
新幹線なんか、車窓そっちのけで会議資料だの動画だのに目を落としている人が大多数です。
そこへゆくと、昭和の作家が取材旅行に出たときの写真をみると、書籍片手に景色を眺めていましたから、まだ江戸時代に近かったのかもしれません。
これは預札とありますが、預かり手形というよりは私人の発行する流通財としての一般紙幣といったもので、お金と同様に使うことができたようです。
期限が切ってあるのは、米相場が動くからでしょうか。
こちらは安政の大地震の被害状況をまとめた瓦版です。
現在でいえば、広域災害被害速報といったところでしょうか。
旅人はこれをみて、旅程を変更したり中断したりしたのでしょう。
電信も電話もない時代ですから、現地まで行ってみたら焼け野原だったでは、立ち往生してしまいます。
今切れの渡しの絵図。
対岸の新居宿には関所があったわけで、西へ向かう旅人はここ舞阪で躊躇した場合もあったのではないでしょうか。
箱根と違ってここはう回路を通って関所破りができません。
しかし、浜名湖の奥をまわる姫街道(そちらにも関所はありました)の方がゆるかったとききます。
新居の関所は船着き場にあるため、地震による津波や台風の高潮でしばしば倒壊していますから、姫街道はバックアップ用でもあったといわれています。
上湯殿=貴人用のお風呂です。
といっても小さめの酒樽を塗ったような感じで、外窯が付属していないタイプですから、家来衆が足し湯をしたのかもしれません。
湯船に浸かっても冬だったらすぐに冷めそうですし、行水中心だったのかもしれません。
これは蔀戸(しとみど)といって、神社の拝殿やお寺のお堂に用いられる形式の戸です。
このように下半分がはめ込み式で上が吊戸(斜めになっている板がパタンとおりる)になっているものを、半蔀(はじとみ)といいます。
普通の旅籠や住宅等では用いられず、このように一定の身分の人の施設にのみ許されていたようです。
最後に見つけたこの机。
鉄製ながら昭和のものです。
脇のランドセルを吊る金具が懐かしい。
あれ、よく外れて床に転がっていたし、ランドセルを掛けると通路が狭くなって、冬でも半ズボンの小学生は、乾燥肌でカサカサになった腿を切って流血したりしていました。
でも、このように学年によって机の高さを調節できるタイプは、私の時代よりも後です。
学校備品って、簿上で資産計上しないといけないので、あのようにシールを貼って番号を振って管理します。
棄損などして捨てる場合、簿価が1円でもちゃんと帳簿上でも消却しないとだめなんですよ。
舞阪宿の船着き場。
常夜灯はレプリカですが、石垣は当時のものということです。
自転車を漕いでばかりではなく、たまには施設見学でゆっくりするのも良いものです。(おわり)