著者は大学で生物物理学を学んだあと、1960年代に単身フランスに渡ってフランス語を学んで翻訳家になったという、当時としては異色の経歴の持ち主です。
あとがきに書いていますが、フランス語の「こんにちは(Bonjour)」はおろか、アルファベットの読み方すら知らないまま渡仏して、学んだそうです。
そんな著者が、1980年代に「本を読まない子どもたち」を対象に、どのように読書意欲をもってもらうか、ということをテーマにしてフランスで取り組まれた教育プログラムを本の中で紹介しています。
かなりの分量にわたって「高校生ゴンクール賞(Prix Goncourt des lycéens)」の詳細が紹介されています。ゴンクール賞とは、日本でいったら芥川賞のようなもので、その年に候補となる本を高校生たちがすべて読んで(2ヶ月間で12~3冊)、大人たちの発表の15分前に、高校生だけで審査、投票した結果を発表するというものです。
具体的には、毎年各地域別に学校のクラス単位で応募して、当選すれば参加できるというシステムで、当選するのは偏差値の高低に関係なく、また職業訓練校やアフリカやアジアなど移民が多い学校も選ばれるそうです。
高校生ゴンクール賞は、大人の審査する文学賞と違い、出版社やマスコミなどの恣意的な思惑を一切受けないため、結果が本賞と重複してもしなくても、フランスでは世間で認められた賞になっているということです。
また、生徒たちの賞選考過程にもユニークな配慮が施されており、読書討論の場を授業で設けるばかりでなく、フランス全土に店舗網を持つ大型チェーンの書店が経済的な支援を仰いで、生徒と本の出会いを演出し、作家と生徒の交流の場を設けるなど、読書熱を盛り上げるような仕掛けをいくつも設けています。
この本の中で主に強調されているのは、
・(読む前に)子どもが実際に本を手にとってみること
・著作者との交流の場を設けること
・読んだ感想を自分の意見として発表できる場を設けること
の三点です。
いま、日本では(特に地方においては)街の本屋さんがどんどん減少しています。
利用のひとつにネット書店の拡大があります。
私はネットで本を探して購入することを否定はしませんが、購入は別として、学校以外には図書館に行かなければ本に触れる機会がないというのは、かなりお寒い状況だと感じます。
とくに、あの新刊が平積みになっている街の本屋さんは、子どもにとっては活きた文化に触れる場所ですし、そこで大人が熱心に本を選択している姿をみることも、大切なことだと思うのです。
たとえ開いて中を読まなかったとしても、本が身近にある子どもとそうでない子どもは、音楽のそれより影響が大きいと思います。
また、著者との交流の場というのはとても大切だと思います。
私は中学生の時に北海道の旭川に、三浦綾子先生の自宅へサインをもらいに訪ねたことがあります。
(高校生の頃、学校の近くに遠藤周作先生も住んでいたのですが、何かのエッセイに「サインをもらいに自宅に来るのは困る」と書いてあったのを読んで、やめました)
個人情報保護の今では考えられないことですが、当時の文庫本には著者の住所が奥付に載っていました。
もちろん、横浜からアポなしで旅の途中に立ち寄ったわけですが、幸い先生は御在宅で、子どもみたいな中学生が「横浜から来た」というと玄関口で絶句されていました。
私は私で冗談半分に呼び鈴を押したらご本人が顔を出したので舞い上がってしまい、何を話したか全く覚えていないのでした。
それでも、小説家の息吹というものはじゅうぶんに感じました。
「神は愛なり よい一生を生きて下さい 昭和○○年○月○日 彷徨浪馬様 三浦綾子」とサインされた文庫本は、今でも宝物として本棚に収まっています。
私が物を書く仕事に就きたいと思ったのも、本をよく読むようになったのも、或いはそれから何十年もあとにキリストの弟子になろうと決心したのも、あの旭川での出会いがあって、あれから折に触れて「よい一生とは何だろう?」と考えてきたからだと思います。
いまの日本では、講演会に足を運ぶのでなければ、大型書店のサイン会にでも行かないと、作家にはお目にかかれないと思います。
運よく言葉を交わせたとしても、二言三言でしょう。
この本で一番感動したのは、高校生ゴンクール賞の決定にあたるプロセスで、参加した生徒たちが一部ではあっても候補作の作者と対話できる機会(学校に著作者を招く)を必ず設けているという場面でした。
高校生は真剣に本を読んで、読んで湧いた感想や疑問を率直に作者へぶつけます。
著者はそれに答えるだけでなく、小説家としての苦労(ゴンクール賞は芥川賞同様に、新人賞的な要素があるため、作者は無名で殆どが生活のために別の仕事を掛け持ちして小説を書いている)も話します。
こうした対話が著者を刺激し、当該小説を書いた原点に立ち戻り、もっと書こうという動機へとつながり、高校生も小説家という存在を身近に感じて、もっと色々と読んでみようという気になるそうです。
ある作家は会場となった高校の校門で、生徒たちと分かれる際、涙ぐんでいたといいます。
これ、よくわかります。
私も、何かの集まりで「ブログ、楽しく読んでいます」と声を掛けられると、「もっと書こう」という気になりますから(笑)。
次に引用するのは、『ツォンゴール王の死』(La Mort du roi Tsongor=日本未翻訳)という、2002年のゴングール賞と高校生ゴングール賞をダブル受賞した作家、ロラン・コデ(Laurent Gaudé 1972-)が、対話の機会をもった高校生たちに宛てて受賞後に書いた手紙です。
彼は賞を受けたことで当分は経済的な支えができたこと、みなさんのおかげで自分の書いたものが読者の共感を得、それを他の人と分かち合うことが可能だと確信し、次作に取り組むことで感謝の気持ちを表したいと綴ったあと、次のような読書への励ましの言葉を贈っています。
「みなさん一人ひとりが、この冒険から何を得たかは知りません。
非常に短い期間に膨大な本を読み、作者たちと出会い、クラスで議論を組織する。
もし、そうしたことが読者への興味を生み出しえたとすれば(興味のなかった人たちにとって)、この賭けに勝ったことになります。
読書は、自由と学習の巨大な空間です。
読むことへの渇望と、議論することへの喜びをもちつづけてほしい。
そして、こんどは自分自身で、自分が没頭できる作品を選ぶ自由をつけくわえてほしい。
ありとあらゆる文章を探索してほしい。
学ぶものは常にあります。
それらのページは、みなさんと同じような男や女が、欲求や疑念や矛盾や熱情につきうごかされて、書いたものです。
どんな学校でも教えることのできないものを、皆さんに教えてくれるでしょう。
著者と読者のあいだには、もうひとつの伝達があるのです。
ひとつの共有です。
未知の場所、未知の感情のなかに旅をさせてくれます。
自己形成の助けになります。
教養を身につけるといったたぐいのことではありません。
無数の教えを得て、世界に向って開かれた人間になることです。
『ツォンゴール王の死』がそんな偉大な機能をはたすなどという、大それたことを言うつもりはありません。
けれど、世界の図書館がみなさんにひらかれているのです。
コンラッドからホメロスまで、デュラスからガルシア・マルケスまで、シェークスピアからボードレールまで、トールキンからデュマまで、思うぞんぶん楽しんでください」
ロラン・コデさんは、完全に高校生だったころの読者に戻っています。
本を読むから、様々な感情が湧いてきて書きたくなるのでしょうし、書いているうちに色々な疑問が出てくるから、読みたくなるのでしょう。
読書という行為自体、机に向って教科書を読み、問題集を解くというスタイルの「勉強」とは対極にあるような気がします。
後に専門書や学術書を読むようになったのも、小学生から大学生にかけてたくさん小説を読んだからだと思います。
今でも、月1冊は小説を読むようにしています。
そうしていると、読書とはむしろ、家から出て旅に出る行為の方が似ているのではないかと思えてきます。
遠藤周作先生も、「はじめての街へ降り立つとき、その本をはじめて開いて読みだすときと気分が似ている」と書いていましたが、読書は旅とよく似ているのです。
しかも、時空を超えて旅ができ、もはや会うこともかなわぬ人と対話ができます。
現実の生活ではそうなったら困る病気や事故、事件に遭遇することもありです。
この「内心の旅」はドラマや映画を視聴し、あるいは漫画を読むよりもずっと強烈で、それが「現地に行ってみよう」という実際の旅への動機になります。
この本には、読書教育に正解や王道はないと書いてありますが、その分、読書に情熱をもった大人が、様々な働きかけを子どもにすることが肝要だと述べています。
知識を詰め込むことや、教養をつけて他者を見下すことを目的とするのではなく、コデ氏の云うように、開かれた心をもつ人間になるための読書を、とくに若い人たちにはしてほしいと感じました。
現代におけるリベラル・アーツ教育とは、そういうことだと思うのです。