このシリーズ、ずっとご無沙汰になっておりました。
渋谷から一駅ずつ進んできて、現在の東急東横線は横浜までなので、ここさえご紹介すれば終わりだったのに、完結させる気力が無かったのは、記憶の中で東横線は桜木町が終点、という固定観念が強かったからかもしれません。
しかし、Yahooブログも終了することですし、横浜駅周辺をご紹介して東横線の部分だけは終了させておこうと思います。
かつては真下を東横線がトンネルでくぐりぬけていた高島台へ登ったところまででした。
とりあえず、この丘の中でいちばん高い位置にある高島山公園(35.471743, 139.624125)へゆきます。
北面が開けており、新横浜プリンスホテルや天気が良ければ武蔵小杉の高層マンション群も見えます。
まず目立つのが、弁玉(1818-1880べんぎょく)歌碑です。
弁玉とは、江戸後期から明治にかけての国学者で歌人の僧侶です。
明治政府では、宗教を担当する教部省にて国学の教師だったそうで、最晩年は高島台の南側にある三宝寺の住職だったそうです。
歌をみると、横浜における異人の様子や、蒸気機関車の躍動を詠んでいます。
同じ公園内には高島嘉右衛門(1832-1914)を顕彰する「望欣台(ぼうきんだい)の碑もあります。
弁玉よりひとまわり強あとに生まれた嘉右衛門は、横浜の発展に寄与した商人で、この高島台も彼の屋号から命名されています。
江戸で材木を商っていた彼は、負債を返そうと横浜で外国人相手の貿易業を行うのですが、そこで金の小判を売って多めに銀貨を受け取って儲けていました。
けれども、それは闇両替にあたり、違法でした。
当時は交換比率の違いで国内の良質な金貨がどんどん海外へ流出し、まさに悪貨が良貨を駆逐する状態だったのです。
そんなこんなでインフレーションが進行していたため、幕府はこれを違法として取り締まっており、自首した嘉右衛門は逮捕されます。
江戸を所払い(追放)となった彼は、ここ横浜で材木商の立場を活かして大使館など外国人向けの建築工事を請け負い、明治政府高官や外交官が宿泊する大旅館「島屋」を尾上町に開きました。
そこで得た金を明治維新で賊軍となった盛岡藩の賠償金にあてて領民を救済、のちに、官営鉄道の用地として埋め立て地も寄附(それが現在の高島町)、これで明治政府の信用を得て、以降横浜にて奨学金制度のある語学学校や、ガス会社を設立します。
高島嘉右衛門は易者としても有名で、自らの事業も卦によって判断していたほか、政府要人に政策や戦争の行方、相手の寿命まで占って大変人気があったといいます。
但し、本人は占いは「売らない」として商売を一切行わず、現在巷にあふれている「高島易断」は彼の子孫や門下生と全く関係ないのに業者が勝手に名乗っているとのことです。
さて、公園を出て高島台の南側の斜面上に出てみましょう。
転落防止のため高いフェンスが張られていますが、その下は断崖です。
かつては崖下に旧東海道が走り、その向こうには入り江が広がっていました。
今は埋め立てられてマンションやビルが林立し、隙間からでさえ海は全く見えません。
かつての入り江の名残である雉子川も、上に首都高速道路が蓋をしていて、やはり見えません。
同地より眺めた明治初年の写真が掲示されていますが、前述の高島嘉右衛門が埋め立てて鉄道用地として寄付した土地が、まるで入り江に架かる天橋立みたいな砂州のように湾曲していて、その全貌が見えるここには、もし今なら撮り鉄さんたちが蒸気機関車の写真を撮ろうとして三脚を並べていたのかもしれません。
復刻した実測図をみると、入り江を埋め立て地で横断した鉄道は、現在の桜木町で終点となり、大岡川の河口左岸付近に、船舶への貨物積み出しのためか、引き込み線がのびています。
もちろん、赤レンガ倉庫なんてまだ存在しませんし、戸塚、小田原方面の東海道・横須賀線もありません。
これを見ると、横浜は当初江戸の外港だったのだと納得します。
そこから青木橋の方へ急な坂を下ってみましょう。
坂の途中右手にあるのが、さきほど弁玉のお話に出てきた浄土宗三宝寺(35.471131, 139.625360)です。
現在のお寺は墓地も含めて崖の中腹、太い鉄筋の柱に支えられた人工地盤の上に乗っていて、宙に浮いたようなお寺の姿は、かつて東横線の車窓からも、トンネルを出入りする際に見えておりました。
さらに坂を下ってゆくと、国道1号線青木橋交差点のすぐ手前、崖の先端にあるのが曹洞宗本覺寺(35.472142, 139.626709)です。
ここは海へ突き出した岬の突端のような場所で、下の渚を東海道が走っていたため、古くから交通要衝として砦(青木城)が築かれ、1510年には扇谷上杉氏と山内上杉氏の連合軍と、家臣から北条早雲方へ寝返った城主上田正盛の間で戦がおこりました。(権現山合戦)
背後には、神奈川湊の利権争いがあったといいます。
なお、本覺寺は幕末にアメリカ領事館となり、生麦事件の被害者たちも、ここへ逃げ込みました。
山門の柱には当時白く塗られたペンキの跡が残っています。
坂をくだりきって青木橋のたもとに出れば(35.471007, 139.626397)、横浜駅はすぐそこに見えています。
なお、高島台に自転車に乗ってのぼるためには前回ご紹介したように、反町駅側に回って北側からでないと坂が急で無理です。
青木橋から高島台を迂回して反町駅方面へ出るには、国道1号線の歩道をそのまま北上し、緩い坂を越えてサカタのタネのガーデンセンターの前を通り抜け、380m先の桐畑交差点(35.473829, 139.628964)で左折するか、さらに北の反町公園(35.475732, 139.628870)を斜めに横切って、並行するバイパスを横断すれば、反町駅~東白楽駅間の東横フラワー緑道沿いの道、前にご紹介した新太田町駅跡付近に出ることができますから、横浜からブロンプトンで渋谷方面へ向かう場合は、こちらのルートを取った方が楽でしょう。
青木橋から横浜駅へはJRと京急の線路沿いをそのまま南へ進み、旧東海道を右へ分けて坂を下って右カーブを切ったさきで、東横線の線路跡を横断したらすぐに左折し、突き当った先で雉子川分水路をつたのはしで渡れば(35.467625, 139.622513)、そのまま西口駅前に出ます。
次回は横浜駅の成り立ちを含め、周辺をご案内しましょう。
そして横浜駅を最後に、この東横線シリーズを一旦終了したいと思います。