連日のように悲惨な交通事故が報道されるさなか、運転免許の更新に行って参りました。
案の定、警察署内で受講した安全教育は、「あおり運転の禁止」「高齢運転者の免許返納」「自転車による無謀運転の罰則強化」でした。
見せられたビデオには、交通心理学会の交通心理士(臨床心理士は知っていますが、交通心理士がいるとは知りませんでした。そのうちこうした人たちが助手席に座るようになるのかなぁ)なる人物が出てきて、「いつ、いかなる場合にも決められた交通ルールは守ろうと意識することが大切です」と話していたのには、内心でのけ反ってしまいました。
人間の心理は機械ではありませんし、それができないから悩んでいるのに。
通勤途上、罰則規定のない自転車や歩行者が子どもたちの目の前どころか、子どもを後ろに乗せ、または手を引きながら信号や一時停止を無視し、あるいはスマホ片手に、あるいは両耳をヘッドホンで塞いで公道を往き来している現実を知っている身としては、「せめて車を運転手するときくらいは」なのかなと、穿って聴かざるをえませんでした。
と同時に、自分もいつかは免許を返納する時が来るのだなとか、あおり運転や無謀運転に陥らないようにするにはどうしたらよいのか、考えずにはいられませんでした。
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(今回は写真と本文は関係ありません)Clik here to view.
ビデオでは、ドライブレコーダーの映像がふんだんに使われていて、5年前に1970年前後の交通戦争映像を視聴させられたときとは、絵面はがらりと変わっていました。
(内容は変わっていません)
そう、私は優良運転者(ゴールド免許)での更新は、これで2回目です。
ということは、もう10年間は無事故無違反できたことになっています。
しかし、私は自分のことを姑息と感じたことはあっても、「優良」なんて思ったことは一度もありません。
この5年間、高速道路を運転していてうっかり覆面パトカーを追い抜いてしまい、慌てて左に車線変更なんて、一度や二度ではありません。
安全を心掛けてハンドルを握っている最中、後ろから煽られたり前に幅寄せされたりして頭に血が上ることなんか、それこそ毎度のことです。
そんな俗物の私がなぜ交通ルールを守るかといえば、ひとえに「免許がゴールドではなくなり、反則金や罰金を支払った挙句に保険料が上がるのが嫌だから」に他なりません。
心や精神が優良だから交通ルールを守っているわけではないことは、自分がいちばんよくわかっているつもりです。
だからといって、この文章を読まれている方々は、「やっぱり罰則を厳しくしたら効果はあがるのだ」なんて早とちりしないでいただきたいのです。
私が車の免許を取ったのは二十歳より少し前です。
その時は、大学生でもがんばってアルバイトしてお金を貯めれば、中古車くらいは入手できる時代でした。
その前に原付に乗っていたときから、私は交通違反を毎年のようにしていました。
意図的ではありません。
オートバイ、とくに原付に乗っていた人ならご存知でしょうが、法定速度の時速30キロを守って山の方へ遠乗りするなんて、捕まらないのが幸運すぎるのです。
制限速度60キロの国道を60キロで走っているだけで、赤切符を切られて一発免停ですから。
「周りの車は70キロ以上出ているじゃないですか」なんて高校生の私が抗議したって、「人は人です」と警官から説教されるのがオチでした。
だから、免許停止にもなって期間短縮のための講習を受けましたし、目の飛び出るような罰金をお支払いしたこともあります。
では、そんな私がなぜゴールド免許を2回も更新するようになってしまったのでしょうか。
心を入れ替えたから?
いえいえ、サウロ改めパウロみたいな回心があったわけではありません。
やっぱりケチだからでしょう?
いやぁ、ケチな人ほど人の見ていないところでは違反すると思いますよ。
いつも人を出し抜きたいと思っているわけですから。
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冗談はさておき、自分で考えられる理由は2つです。
1.車に乗る時間が絶対的に減少した。
これは旅行でも通勤でも「ブロンプトン×鉄道」という選択肢が増えたことが大きいと思います。
公共交通機関だけ、それにブロンプトンを併用、オートバイや自動車という、大きく分けて三種類の選択肢があるわけです。
一日中雨の日など、たまに電車に乗ったり、或いはマイカーに乗ったりするときは、読書をしながら、あるいは音楽を聴きながら、このような選択肢があることに感謝だなぁと思います。
そして、普段から自転車で車や歩行者を客観的に注視しているだけに、ああいう走り方、歩き方はやめようと思いますし、逆に自分が車や歩行者でいるときに自転車をみて、「あのような走り方がイラっとくるのか」と内省することができます。
若い時に、オートバイと自動車両方に乗っていて、どちらの運転心理も分かることで相手に対する思いやりの気持ちが持てたことを思いだしました。
オートバイだけ乗っているときには、なぜ自動車のドライバーは二輪車を無視する傾向にあるのか分かりませんでしたし、オートバイに乗ったことのない人に、なぜ彼らは信号待ちで左からすり抜けて前に出ようとするのか口で説明するのは難しいものです。
これはスキーとスノボでも同じです。
スノボしかやったことのない人に、スキーヤーは急に進路を変えることがあるといっても分からないでしょうし、スノボに乗ったことのない人は、なぜ彼らはコースのど真ん中で座り込むのか理解できません。
でも、両方に乗ってみればすぐわかることなのです。
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度重なる死亡事故によって高齢者の免許返納について話題になっていますが、私のような50代でも肥満によって自分でズボンがはけないとか、慢性疾患にかかって視力が著しく減退してる人がいる一方で、トライアスロンの試合に年に数回出るとか言っている人がいるくらいですから、75歳以上の後期高齢者となると、身体的、精神的な個人差はもっと広がるのではないかと思います。
それを一律何歳になったら免許を返納するように決めるなんて、老い先の短い人にとってこそ、酷な話だと思います。
そう主張する人は、自分が何らかの事情で免許を持っていないとか、持っていてもまだ若くて高齢者の気持ちを斟酌できないとか、わが身に置き換えて考えにくい状況にあるのではないでしょうか。
世間では、事故を起こした加害者をバッシングすれば世の中が良くなるとでも思っている人が多いみたいです。
しかし、そんな事よりも自分が高齢や病気や怪我などの事情で運転がおぼつかなくなったとき、いかに潔く免許を返納できるだろうかと考える方が、先ではないでしょうか。
自分で移動できなくなることを考えたら、もの凄い恐怖だろうと思います。
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不便ではない場所に住み、タクシーを使えるだけの経済的余裕があって、なおかつ運転に不安があるのにマイカーで事故を起こしたとすれば、それは非難に値するのかもしれませんが、その事故とどう向き合い、どう償うのかは当事者の問題であって、他人がとやかく言うことではないと思います。
同様に、一方ではさん付けし、もう一方では容疑者呼ばわりするのも、報道する人や警察組織の問題であり、彼等を信用していない外野は静観でよいと思います。
御存じでしょう?
事故をおこしたとき、家族などを通して政治家の秘書や知事に泣きつく人がいることを。
どの人がそうだとは言えませんが、警察が交通事故加害者を取り調べるとき、人定質問の際に必ず聞くのは、「受勲や表彰の過去があるかどうか」です。
その有無によって発表をはじめ、警察のマスコミ対応が変わります。
なぜなら、組織で世話になった人や、政府や官庁が勲章を与えたり表彰をしたりした相手を手のひら返しで非難したら、自己矛盾に陥るじゃないですか。
事故をもみ消すことはできなくても、対応を慎重にさせることはできます。
しかし、それは行政と報道の問題です。
どのように他者を攻撃してみたところで、その人自身も含め、内心は「自分に火の粉がかかりませんように」と臆病になりながら、そのくせ内側にはドロドロとしたマグマのような嫉妬や怒り抱き、まるで調整弁の壊れた圧力釜みたいな心境のまま、事件や事故が起こるたびに八つ当たりのように過ちを犯した人を糾弾することで、内圧を下げたものと早とちりする勘違い人間を量産するだけだと思います。
そして、そのような人が歳を重ねたとき、自己を内省する勇気もなく、他人の忠告には耳を貸さないような、いちばん免許を手放したがらない人になるような気がします。
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繰り返しになりますが、問題はいかに高齢者が「免許は返納し、以降車を運転するのは諦めよう」と決断してもらえるかであり、自分が歳を取った時に、喜んで免許を返せるようになるのか考えることです。
「いつか事故を起こすぞ」と脅し、彼らから強制的に免許を取り上げることに腐心したところで、いざ自分が高齢者になった時に容易く免許を手放せるようになるわけではないということを、よく考えてみる必要があると思います。
その点、この選択肢を増やすとか、代替案をみつけるというのは、ひとつの答えになっていると思います。
お年を召した方で、自転車に乗るなり、山登りするなり、ウィンタースポーツを楽しむなりして自分の足を使って移動する手段のある人たちは、とても前向きな考えの人が多いように感じます。
逆に自分の身体を使おうとせず、車ばかりに頼ろうとする人のなかに、「この人平静ぶっているけれど、内心が明らかにおかしい」と感じる人にお目にかかったことがあります。
肥満のせいで足の関節を悪くして歩けないのは分かりますが、ならば痩せようとしてこなかった自分に問題があるとは考えないのかなと。
高齢者になる前から文明の利器に頼るのはほどほどに、身体を使う趣味を持ったり、習慣を身につけることは、老化防止の点だけではなく、精神的な成長にも大切ではないでしょうか。
年齢に関係なく、心と体はつながっているのです。
2.自分は手の施しようのない不良ドライバーだと自覚した。
このように書くと、すぐに「そんなこと言っているからお前はダメなのだ」と叱る人がいますが、深慮のない、すなわち浅薄極まりないもののとらえ方だと思うのです。
自分を恃みとしている限り、自分で自分は変えられません。
アメリカの自由神学者にラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr 1892-1971)という方がいました。
ニーバーの祈り(英語では“Serenity Prayer”)という有名な言葉があります。
冒頭は以下の通りです。
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。
(Wikipediaより)
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この祈りの意趣をくみ取れば、自分には変えることのできないもの(ここでは良質な運転マナーを保てない自分)を受け入れる力がない、変えるべきものを変える勇気が無い、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さがない、という立場を出発点にしないと、それらを与えてくださいと神に願うことすらできないことになります。
1の例でいえば、自分には今までのような正常な運転をする能力が(時として)無い、免許を返納する勇気が無い、いつ免許を返納するか判断する賢さが無い、そこに立脚できない人は、免許など返納できるわけがないというわけです。
人間なら誰しも「自分はまだまだ大丈夫」と考えたいし、自分よりも若年者から年寄り扱いされ、免許を返納したら、身を切るような痛みを感じると思います。
しかし、以前も書いたように、人間を超えた存在から与えられた能力を、少しずつ返してゆくというように考えてみたらどうでしょう。
原始仏教では、「人間は煩悩に塗れて生きるものであり、自分もその一人であるという自覚から、自己は世界の一部であり、同じ一部としての他者に対する慈悲の心を持ちなさい」という教えがあります。
私は優良ドライバーだけれども、周囲は粗暴なドライバーが多いと思っている人に、自分が違反したり捕まったりすることを想像してみてくださいと言っても、どだいむりな話です。
同様に、「アイツはいまだに煩悩塗れだが、私は既に解脱した」という人や、自分のことは棚にあげて人を責める人に慈悲の心は持ちようがありません。
「私は交通ルールが守れない、善良には程遠い愚かなドライバーです、どうしたらよいでしょう」と祈る人に、お釈迦さまの次の言葉は含蓄のあるものと映るのではないでしょうか。
『怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。分かち合うことによって物惜しみにうち勝て。』(ダンマパダ「ブッダの真理の言葉」 中村元著)
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選択肢を増やすことと、不良ドライバーな自分を自覚して、自分を恃みにするのを諦めること、物心両面で変化を与えられたことに対し、不平を並べるのではなく、感謝できること、そこに鍵があるように思いました。