あるテレビ番組で、電動アシスト自転車の専門店の店員さんが、訪れたタレントさんに『この自転車を使えば坂の多い東京がフラットになる』と発言していました。
その自転車屋さんのある街は、多摩川に近くて、背後に河岸段丘を背負っているものだから、都心方面に向かうとなるとどうしても最初に坂を登らねばならない場所にあります。
「東京が平地になる」というのは、それはそれで素晴らしいことなのでしょうけれど、もし東京がワルシャワやベルリンのように起伏のほとんどない、まったいらな土地だったら、私はちょっと嫌だなぁと感じます。
旅でも日常生活でも、丘も谷もある方が視点が変化に富みますし、降り注ぐ太陽光線の角度も変わりますから。
その点で、私はお散歩が趣味の有名人が、なぜ坂や起伏にこだわるのか分かるような気がするのです。
私は自転車に乗り始めのころ、多摩川の南側段丘の向こう側で育ちました。
下末吉台地の間に、鶴見川とその支流が流れていて、谷間の小川を下流方向へたどると鶴見川サイクリングコースの起点にゆき、逆に上流方向へゆくと、途中高速道路等で断ち切られてはいるものの、尾根伝いに小田急線の新百合ヶ丘駅方面へゆけました。
南方向は標高40m程度の尾根を越えれば鶴見川で、東横線に沿うように台地を避けて谷伝いにゆけば、やがては港町横浜、北も同じくらいの高さの尾根を越えれば、その先には多摩川の沖積平野が広がり、そこを突っ切ると武蔵野台地が立ちはだかるという具合です。
その武蔵野台地に刻まれた皺を上手に越えてゆくことで、都心へと出られるのでした。
必然的に、台地にどうやって取りついて、どう乗り越えるかというのは、こどもの自転車、つまりは小径車で遠出をするときについて回る課題だったのです。
最寄りの駅を除き、どこの街へ行っても帰りは必ず坂を登って来なければ、家へ戻れませんでしたからね。
そこで、谷間の支流を詰めて最後に斜面を横切るように登りきるとか、尾根の大きくくびれた部分(いわゆる鞍部)をねらって越えるとか、なるべく自転車に乗ったまま丘陵を越えてゆく手段を、走行することで感覚的に覚えてゆきました。
のちに地図が読めるようになると、地図から想像するようにもなりました。
私もその時代の男性ですから、オートバイや車に興味が移ると、自転車には全くといってよいほど乗らなくなりました。
他の人もそうだとは思いますが、オートバイやマイカーを入手して乗りまわすと、背伸びした感じとともに、どこまでも行けそうな自由を感じました。
エンジンという動力を操る楽しさは、それはそれで言葉では言い表せないほどの爽快さを与えてくれるものですが、その一方で、徒歩や自転車では当たり前だった自分の足で大地を感じるという感覚が薄れているのには気がつきませんでした。
失ったのは、地面と足とのやり取りだけではありません。
歩いているときにはよく観察できた、同じように道行く人や、動植物の様子、風の音、その土地の匂いなどです。
東京の日本橋から京都の三条大橋まで歩いたことによって、やっと自分の身体と地面という環境が相互にやり取りをする、人間本来の旅の原点を再確認しました。
人の移動の起源は、やはり自分の足を使って歩行することだったし、インターネットはもちろんのこと、電話や電信もないその時代には、基本的には歩く速度でしか情報は伝わらなかったのだという事実も、身を以て理解しました。
同時に、その頃の道は歩くことを前提に考えられていたのだということも、改めて認識しました。
旧東海道に代表される昔道には、自分の足で歩くことへの配慮があります。
おそらくは、牛や馬が曳いた荷車が通行しやすいように、できるだけ急な登り下りを極力避けて、並木も旅人を風雨や日照から守るためのものだったというのは、様々な季節、天候のなかであの道を歩いてみないと、実感できないと思います。
ところが、最近造られた自動車の走行を主目的とした道路は、ちっとも人に優しくない道路が多く存在します。
信号が多くて歩道もせまく、歩道橋がある場所などすれ違いさえ困難な場所があります。
幅広の歩道はつけてあっても、勾配が急すぎて自転車はおろか歩いてさえ登るのに難儀する坂や橋もあります。
夏など、アスファルトの輻射熱で陽炎が立ち、子どもの頃にやった「G’メン75」ごっこなどとてもする気になれない、げんなりしてしまうような平坦でまっすぐな道も、歩いたり、自転車で走ったりすれば「雑だな」と感じるのです。
都内における歩きやすい遊歩道は、暗渠化された河川上に限られてしまい、武蔵野台地のあたりでは必然的に東西に道はついていても、南北へ続く道はありません。
だからこそ、都内を自転車で南北に貫くには、上手に丘陵を越える道を工夫する楽しさがあるのです。
もうひとつ。
人間は、環境とのコンタクトが直ではなく、動力を通して疎遠になればなるほど、自己中心的で無神経な生き物に変化してしまうのではないかと考えています。
どうしたら、ロード・レイジを鎮めることができるだろうと考えた時に、そんな風に思いました。
歩道における自転車の乱暴運転が話題になりますが、私自身、歩いている時よりも自転車に乗っている時、自転車よりもオートバイや車の運転をしている時の方が、注意が散漫になり易く、動作も雑になっていると感じるときが多々あります。
そして、他者や交通弱者への配慮が足りなくなっているとも感じます。
ハンドルを握ると人が変わるというのは、悪い意味で使われる言葉ですよね。
本来であれば、大きな動力のついた乗り物を駆る際には、より慎重に細心の注意をもって運転しなければならないと、理屈では分かっているにもかかわらずです。
子どもや荷物を運ぶために電動アシスト自転車を使用するというのは仕方ないとして、サイクリングやレジャーに電動アシスト自転車を使うのはどうなのかなと今では思っています。
皆が皆というわけではないでしょうけれど、電動という動力を得て出来た余裕を、安全運転や歩行者への思いやりに向けるのではなく、携帯音楽プレーヤーやスマホ使用の「ながら運転」に使ってしまうという人のことも、何となくは理解できます。
そもそもが、楽になりたいという動機ですし、移動の手段として割り切っているなら、易きに流れるのが人情でしょうから。
けれども「老化は脚からくる」と申します。
自分の身体を使い、そこに意識を集中することで、脳も活性化されると思うのです。
先日、旅先で息をすることの大切さを書きましたが、歩いたり、アシスト機能の無い自転車を走らせたりと、自分の足を使って環境とじかに対話することも、また大切なことなのだと思います。