安楽川を和泉橋((34.871973, 136.504678))で渡り、旧東海道を亀山宿に向って進みます。
橋の南岸正面に見えるのは鈴鹿市立井田川小学校校舎(34.871063,136.505171)です。
小学校の位置は、安楽川と鈴鹿川の合流点の突端に近い場所にありますから、校舎校庭の向こう100mには、安楽川に並行して鈴鹿川が流れています。
しかし、この辺りではどちらの川も市境になっておらず、西に2㎞の場所に、全く同じ名前の亀山市立井田川小学校(34.869897, 136.482597)が存在します。
もともとは、この場所で亀山市・鈴鹿市学校組合立井田川小学校というひとつの学校でしたが、昭和54年に分離し、亀山市立井田川小学校の方が西の台地上に移転したそうです。
今の校舎はその後に建設されたものだと思いますが、自分の小学校時代の箱型校舎と同じです。
橋を渡ってすぐ小学校裏手の土手上で右折し100mさき、道が土手からくだった正面にあるのが、和泉町公民館(34.871103, 136.502691)です。
建築年代は不明ながらピンク色の木造平屋建で、モダンな雰囲気のする建物です。
よくみると、正面屋根の上に小さな四角捶形をしたオブジェがのっています。
ここはとはお寺だったということで、法事のあとにお凌ぎ(飲食)をする、寺院会館のような建物だったのかもしれません。
旧東海道はその後ゆるく折れながら、蔵や連格子窓のある家を散見しつつ西へ向かいます。
和泉橋から820m、長さ20mほどの下り坂をおりたところ(34.870782, 136.496458)で、三重県道641号平野亀山線に出ます。
大概のガイドブックでは、ここで右折して県道を西へ進むように指定されていますが、
そのまま直進するいかにも街道然とした道があります。
また、坂の上を折れずに直進すると、途中途切れてはいるものの、地域の鎮守である大御寶神社(34.871647, 136.494760)に突き当たるようになっています。
これは思うに、関西本線の前身、関西鉄道の線路が明治23年に敷設されたとき、それまでの旧道が分断されてしまったのだと思われます。
ここはガイドブックには従わず、県道を渡って直進し、200mさきの小さな踏切(34.870109, 136.494100)で関西本線を横断します。
本線といいながら、もちろん単線です。
板塀の向こうに平屋の連なる路地を抜けると、踏切から160mで県道に出ますので左折し、さらに180mすすむと、左側に駅前広場がみえます。
ここが、関西本線の亀山のひとつ手前、井田川駅(34.868397,136.492469)です。
このように旧東海道が駅前を通るのは、四日市宿と石薬師宿の間、伊勢街道との分岐点だった日永の追分の先の、四日市あすなろう鉄道追分駅前以来です。
旧東海道には鉄道沿線が多いのですが、このように駅前に旧東海道がはしっているというケースは、実はそれほど多くはありません。
こんど、出口の目の前が旧東海道という駅をご紹介しましょう。
近鉄名古屋線の伊勢朝日駅を朝に降り立ち、昼食を取り損ねた私とDANさんは、井田川駅前を背に160m西へいったところで国道に出て、四日市方面に120m戻った場所にあるファストフード店で、遅い食事をとりました。
今はスマホがあるから見つけられますが、歩いていた当時は旧東海道からは死角になっているこの場所で食事がとれるかどうか確証はありません。
あてずっぽに国道へ出てみても、食堂があるかどうかはわかりませんから、遠くからみてコンビニらしきロードサインが見えたら、旧道を外れて国道へ出てみるというのがせいぜいでした。
それでも近寄ってみたらガソリンスタンドでがっかりしたという経験は、一度や二度ではありません。
なお、前述の日永の追分のすぐ先にある大治田一丁目交差点から、この地点を通って47番目の関宿の西はずれにある新所町交差点までの25.4㎞の区間は、国道1号線と国道25号線が重複しています。
国道25号線はその先奈良との県境を越えて、天理市を通り、大阪の北新地で再び国道1号線とぶつかって終点になります。
さて、食べ終わったら再び井田川駅前に戻って旧東海道の旅を再開します。
今日はなるべく鈴鹿峠に詰めて、できれば坂下宿まで行ってしまい、亀山で宿泊ののち、明日帰宅日に鈴鹿越えを敢行してできるだけ西までブロンプトンをすすめて、米原から新幹線に乗車して帰るつもりです。
鈴鹿峠を越えるということは、東海から近畿地方に入ることを意味します。
1泊2日で関東からこの地域への輪行となると、どうしても旅程がタイトになります。
加えて、いったん鈴鹿峠を越えたなら、その先の鉄道駅は私鉄(近江鉄道)であれば、水口宿、JRであれば、その先の三雲までありません。
そこまでゆくと、本来であれば京都まで行って東海道新幹線のぞみで帰るのが早いのでしょうが、なにせ尺取虫方式の旅を続ける以上、ゴールに定めた京を経由して往き来するわけには参りません。
だから、今回の帰りも次回の往路も、米原駅などという通常は北陸方面に用事があるときしか利用しない駅で新幹線を下車して、往復しなければなりません。
すると、当然に次回の再スタート時刻も遅れるわけです。
こうして、尺取虫方式の旅は、現代であっても江戸の昔のように経済性を考え、「今日はどこそこの宿場まで行ってしまおう」と考える所が、逆の意味で良いのかもしれません。
さて、井田川駅前から390m先の川合町北交差点(34.866019, 136.489036)で国道1号線を渡り、80mさきを左折して真宗高田派の西信寺(34.866255, 136.487584)の前を過ぎ、さらに400mさきの川合椋川橋(34.863456, 136.485728)で椋川を渡り、そこから140mさきで国道1号線亀山バイパスの陸橋をくぐり(34.862364,136.484913)、370mさきの左手に和田道標(34.859412,136.483632)を認めます。
この道標は「ええっ、これが分岐点?」と思えるほどの狭い路地との角に立っており、自転車だとうっかり見落としてしまうほどの地味さです。
これより若松道とあり、ここから前回話題になった神戸城下(4.879091,136.577678)を抜けて伊勢湾の白子(34.831963, 136.592056)へ出て、或いは北の伊勢若松(34.859267, 136.614325)へと続きます。
白子は伊勢参宮道の宿場であり、伊勢湾に面した白子港は古代から伊勢平氏の水軍(いわゆる白児党)の根拠地でした。
江戸時代には紀州藩の代官所をはじめとした役所が置かれ、廻船輸送の統制をおこない、江戸後期には問屋の千石船は25隻を数えたといいます。
同じ江戸後期の店名年間に、駿河湾沖で遭難し、8カ月を経てアリューシャン列島に流れ着いてから、島伝いにカムチャッカ半島に出てオホーツクへと渡り、そこからイルクーツクを経由してシベリアを横断し、サンクトペテルブルグ(!)まで旅して当時のロシア女帝、エカチェリーナ2世に謁見し、援助されて根室へ帰還した大黒屋光太夫(1751-1828)の出身地が、白子の北の若松です。
若松のの生家跡近くの伊勢参宮街道沿いには、記念館があります(34.859531,136.614534)。
彼の実家はそこで船宿を営み、そこから白子の廻船に雇われて29歳の時には実務上の船長である、沖船頭に出世しています。
光太夫のことは、井上靖著「おろしや国酔夢譚」や吉村昭「大黒屋光太夫」に詳しいですし、1992年には前者の小説が映画化されています。
サンクトペテルブルグかぁ、現代の旅人にとっては、行ってみたい憧れの地です。
和田道標から160mさきで、旧東海道は南から西へ進路を変えます(34.858184, 136.482676)。
もちろん、角があって一挙に向きを変えるというよりは、何度か曲がり角やカーブを繰り返しながら進路を変えるわけですが、旧東海道にはここがターニングポイント、と感じられる印象的な辻がいくつかあります。
たとえば、日本橋を出た旧東海道は概ね江戸(東京)湾に沿って南下するわけですが、どこかで西へ向きを変えます。
その象徴的な辻は、藤沢宿入口の遊行寺橋を渡ったところです。
こんど、こういった印象的な角をあらためてご紹介しましょう。
西へ進路を変えた旧東海道は、ゆるやかな坂をのぼってゆきます。
天気の日など、坂の上に夕陽が輝き、印象的です。
人間は、無意識のうちに太陽を追いかけて旅する生き物なのかもしれません。
ほら、浄土宗でも阿弥陀仏の西方極楽浄土という思想があるではないですか。
天台真盛宗の福善寺(34.858449, 136.480735)を右手にみて過ぎます。
天台真盛宗とは、天台仏教系の一宗派で、総本山は比叡山の琵琶湖側山麓にあたる坂本にある西教寺です。
弘法大師空海の真言密教が東密と呼ばれるのに対し、伝教大師最澄の開いた天台宗における密教は台密と呼ばれ、そうした密教的な色彩の強い延暦寺や三井寺に対し、西教寺は阿弥陀如来を本尊としてお念仏を重視するなど、浄土教的な色合いが濃いようです。
坂の途中、高い石垣の上に建つのが高野山真言宗の石上寺(せきしょうじ 34.858376,136.478353)です。
寺伝によれば、796年、大和布留郡(現在の天理市)の住人紀真龍(きのまきたつ)が石上神宮のお告げにより熊野権現を勧請して祀ったのが起源で、同じ年に弘法大師が訪れて地蔵菩薩を刻んで建立し、那智山石上寺と名付けたのだそうです。
さらに坂をのぼってゆくと、頂上付近の右側に和田一里塚(34.857540,136.475649)があります。
模式復元されたものですから、正確には跡なのでしょうが、昭和59年の道路拡幅までは塚の一部が残っていたそうです。
和田一里塚から410m西へ進むと、栄町交差点(34.857390, 136.471121)で国道306号線と交差します。
この306号線は、ここから北上し菰野までの区間を巡見道といいます。
大名や旗本など各地の領主を監視し、情勢を調査した役人を巡見使といい、彼らが使った道だからこの名がついています。
幕府へ現状を報告する役目ですから、悪政と評価されてはかなわないわけで、領主は過剰な接待をし、沿道の領民に賦役を課したといいます。
ああ、会社にも内部監査ってありまして、同じようなことしていた気がします。
栄町交差点から270mさきの左側にあるのが、カメヤマローソクの工場です(34.856593, 136.468514)。
カメヤマローソクって、お仏壇の下の引き出しに箱に入ってありました。
蝋燭や線香ばかりでなく、いまはウエディング、バースデー用キャンドルや、フレグランスキャンドル、LEDキャンドルなど、様々な商品ラインナップがあるようです。
直営店はJR亀山駅の近くにあります。
小さなキャンドルなど、お土産にはよいかもしれません。
(亀山宿江戸口門跡)
亀山工場の前からさらにすすむと、だんだんと沿道の家が建て込んできて商店が増えてゆき、旧東海道は左へ大きくカーブした後、1㎞さきで県道に突き当たります。
ここが、亀山宿の江戸口門跡(34.853507, 136.458300)にあたります。
次回はここから亀山宿をご案内いたしましょう。
旧東海道ルート図(井田川駅前~伊勢坂下)
https://yahoo.jp/tH6eSs