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旧東海道へブロンプトンをつれて 45.庄野宿から46.亀山宿へ(その1)

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庄野宿を出てすぐの国道1号線(25号線併用区間)汲河原町交差点(34.878747, 136.520541)から旧東海道を西へ向かいます。
この交差点は立体交差になっていて、上をゆく県道で南方向へ鈴鹿川を渡ると、すぐに鈴鹿市内の商業地域中心に出ます。
その向こうが本多技研工業の鈴鹿製作所、さらにその向こうが鈴鹿サーキットです(34.846121, 136.538844)。
鈴鹿サーキットは、サーキットだけでなくモートピアと呼ばれるレジャーランドも併設されており、天然温泉もあります。
昔、東京の日野市に存在した多摩テックと同じ会社が経営しています。
川向こうなので、沿道とはいいがたいのですが、近鉄線が使えるので桑名宿から亀山宿の間の旧東海道を散策するのに、週末は空いている鈴鹿市内のビジネスホテルを活用するのもひとつの方法です。
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(旧道の痕跡が残っている場所は、漏らさず走りましょう)
汲河原町交差点を旧東海道は対角線上斜めに横切っておりました。
最初は県道を渡り、続いて国道を渡って対面に出たら、西方向へゆき一本目の路地を左折すれば旧東海道に復帰できます。
旧道らしくゆるくうねる道をゆくと、国道から450mのところで「従東神戸領」(これより東神戸(藩)領)という石碑をみて、ちょうどその反対側、江戸側からゆくと樹木の陰になって見つけにくいのですが、同じ領界石の隣に「女人堤防」と題された顕彰碑が立っています(34.877306, 136.516029)。
神戸藩というのは今の鈴鹿市役所より700mほど南西の神戸公園(34.879151, 136.577683)にあった神戸城を藩庁とする小藩です。
徳川四天王のひとり酒井忠次の次男である康俊が本多忠次の養子となってはじまった、本多康俊の玄孫、本多忠統(ただむね)が1732年(吉宗の享保の改革の頃)に河内国から移封となり、神戸藩は明治維新までこの康俊系統の本多家が治めます。
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忠統を初代に数えて第五代忠升(ただたか)治世の文政12年(1829年=シーボルト事件によりシーボルトが離日した年)のころ、鈴鹿川と安楽川が合流したすぐ下流のこの辺りは、水害に悩まされていました。
神戸藩の藩庁に堤防を築きたいと幾度も陳情をおこなったのですが、なかなか許可をしてくれませんでした。
理由はここに築堤されてしまうと、対岸の神戸城がある領内が洪水に見舞われるようになるのが必至だったからだそうです。
なんだか多摩川の丸子橋のあたりでも同じような話の石碑がありましたっけ。
そこで北岸の領民は、工事をするのが女性だったら重くは罰せられないだろう、男子がやったら全員斬首され、村は自活できなくなるのだからという思惑のもとに、村の女たちによって夜に工事を続け、6年かけて堤防を築いてしまいました。
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(女人堤防碑)
当時、領主の許可なしにこのような工事を行えば、打首獄門だったそうです。
事実、築堤工事に携わった女性たち二百余人は残らず捕らえられて、一旦処刑場へ送られるところまでいったのですが、すんでのところで赦免の早馬が刑場に駆け込み、命拾いをしたということが、この顕彰碑には記されています。
本当に処刑されてしまったら、青くなったのは村の男たちだったのかもしれません。
なお、赦罪がかなった背景には、家老松野清邦の死を覚悟した藩主への諌言があったといいます。
自分は死んでもいいから、領民の命を救いたいという為政者側の人間の決意はたいしたものですが、このお話にはまだ続きがあって、結局神戸藩はこの村の女性たちの堤防を築いた功を労って、彼女たちに金一封と絹五匹を藩主より下賜したのだといいます。
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ときの藩主忠升は、江戸城門番、日光祭祀奉行などの歴任した朱子学の徒でした。
江戸時代の後期になると大いに流行った朱子学は、自己と社会は宇宙を律する普遍的原理によって結ばれていて、人格を陶冶することでその理をつかみ、世の中を治めることができるとする学問体系です。
ちょうど前後して欧州で起こる啓蒙思想と比較すると面白いのですけれどね。
この事件の30~40年前にあった寛政の改革のとき、松平定信によって江戸幕府の正学とされました。
中国では明代にこの朱子学の中から陽明学もおこり、これらがのちに天皇を中心とする尊王攘夷運動を勃興させ、倒幕運動と結びついて明治維新へと向かうわけですが、江戸時代もこのころになると為政者のみならず被支配層にも学問的素養が広がっていましたから、藩主もまた、掟と理想、藩主としての立場と領民の目との狭間で悩み、それがぎりぎりの決断になったのかもしれません。
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(中冨田の川俣神社と一里塚跡)
左手に低くてはっきりはしないものの、川堤らしきものをみながら旧東海道を進むと、女人堤防の碑から530mで川俣神社(34.875654, 136.510686)です。
庄野宿の京方近くにも同名神社がありました(34.881894, 136.522934)。
この神社の前に中冨田一里塚がありました。
江戸日本橋へちょうど百里の一里塚であったため、付近には東百里家(とうもりや)という屋号の家があったと記されています。
また、立場ではなかったもののこの家は御馳走場とも呼ばれ、大名行列一行を接待したと考えられています。
今で言ったら「江戸までジャスト100里ガソリンスタンド」といったところでしょうか。
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「百(千)里の道も一足(歩)から」という諺がありますよね。
皮肉屋さんは、この言葉を「でも、まちがった方角へ向かったら、永遠に目的地には着けませんし、また百里の道を戻ってこないとスタート地点に戻れませんよね」などといいます。
けれども、旅する人からいえば、間違った方角なんてないし、大過無きが一番とか言いながら一歩を踏み出さずに永遠にそこへ留まりつつ、そんな屁理屈ばかりを並べている方が、よほど愚昧だと思います。
旅に出て「こんなことになるなら家に居るのだった」と文句ばかり言う人がそれです。
ゼロはどこまでいってもゼロのままですし、一がなければ百もないのですがね。
そういうことを考えると、思いだす話があります。
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中国は唐代の僧、華厳宗の事実上の開祖である賢首(けんじゅ643-712)大師の著書に、「五教章」という文献があります。
賢首大師より法蔵と呼んだ方が通りがよいかもしれません。
この五教章のなかでは、華厳宗の根本原理が説かれていて、そのひとつに「十玄門」(正式には「十玄縁起無碍法門義=じゅうげんえんぎむげほうもんぎ」です)という考え方があります。
その中で大師は、個々が異体(ちがうもの)同士、同体(おなじもの)同士の関係を、用(作用における関係)と体(存在そのものの関係)に分けて説明しています。
同じもの同士の作用の関係は「一中多・多中一」、存在そのものの関係は「一即多・多即一」(この言葉は京大の田邊元博士の著書でも出てきました)と表現されます。
般若心経の「色即是空 空即是色」に代表される、異質なものを是で結びつけてしまう言葉ってわかりにくいのです。
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これをやさしく一から十を数える場合に喩えて記述しています。
その中で、「一には、一は是れ本数なり。何を以っての故に。縁成(えんじょう)の故に。乃至(ないし)十には、一が中の十。何を以っての故に。若し一が無ければ十成せざるが故に。即ち一に全力有り、故に十を摂するなり。仍(よ)って十にして一にあらず」という表現があります。
(縁成=すべてのものが因縁によって成り立っているという仏教の考え方)
ありていにいえば、はじめに一を根本の数として、一が無ければ十は成立しえない、
だから一は有力(ゆうりき)であり十は無力(むりき)であるがゆえに、十は一に摂(おさ)められるというのです。
百里の道も一足からと同じ考えだと思います。
ところが、そのすぐあとで十が一に入ってしまうからといって、十がなくなってしまい、一だけになってしまうのではないと言っています。
ゆえに、一と十の関係は成り立つのであるし、十は一という因縁によって成立する十であるがゆえに、十自体、本性、自性は無いというのです。
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(西冨田の川俣神社)
旧東海道の旅を振り返ってみると、これまでの百里は一里ずつの積み重ねであるがゆえの百里であり、百里という数そのものに本性が備わっているわけではない、ここは江戸を出て百里目であるけれども、それは一里という数字に入ってしまう百里にゆえに存在することになります。
実は、五教章ではこのあとに今度は十から一に向けて数字を辿ってゆき、十あっての一という説明が続いています。
今度は今までたどった百里を、九十九、九十八・・・と数えてゆくと、一里は百里に包摂されてしまうというわけです。
なんだか演繹法と帰納法の説明みたいになってしまいましたが、仏教の事事無碍(爺無碍じゃないですよ)ということに当てはめてみると、なにか、旅というものの本質に、違った角度から光が当てられるように思えるのです。
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(和泉橋)
旧東海道はこのあとゆるやかに大きく左カーブを描きながら、西から南へと進路を変えます。
中冨田一里塚のあった川俣神社から770m先、またもや川俣神社があらわれます(34.873593, 136.503642)。
便宜上、この神社を西冨田の川俣神社と呼んでいるみたいです。
川俣ということは川の合流点ですから、よほどこの辺りの洪水被害がひどくて、龍神様を祀っているということではないかと推理します。
その先で旧東海道は土手に突き当たり、左手に登ってゆくと安楽川が現れ、すぐ下手和泉橋(34.871973, 136.504678)で対岸へと渡ります。
背後から上流方面にかけて、晴れていれば鈴鹿山系の山々が見えます。
また、この安楽川を遡ると石水渓という渓谷があり、そこから林道をさらにのぼると、安楽峠を越えて、滋賀県土山町の猪鼻へと出ることが可能です。
事実この峠は古来より鈴鹿峠の間道、安楽越として使われていて、猪鼻は坂下宿と土山宿の間にある立場でした。
安楽峠の下を、現代の最新道路、新名神高速道路が「鈴鹿トンネル」で抜けているというのは、前回書いた通りです。
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今回は仏教談議で長くなってしまったので、この辺で。
次回はこの安楽川に架かる和泉橋から、亀山宿へと向かいたいと思います。
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旧東海道ルート図(近鉄四日市駅入口~井田川駅前)
https://yahoo.jp/LNBqWD


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