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楽しさと自信は恐怖心に勝る

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もうすぐ終わってしまいますが、スキーシーズンですからたまには教えているときのことを書きたいと思います。
毎度、スキーを教えているときに感じるのは、技術を身につけてもらうこともさることながら、これは恐怖心をやわらげ、克服するお手伝いをしているのではないか、という思いです。
スキーにしても、スノボにしても、やったことのない人にはわからないでしょうが、あの雪の斜面、下から見上げているときは全く気付かないのに、いざリフトに乗って斜面の上部にいって下を見おろすと、特に慣れない人は心底恐怖を感じるものなのです。
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長野県の白馬や、札幌の大倉山にはジャンプ台があります。
あれらは、夏でも観光客がスタート地点へ登れるのですが、テレビでお馴染みのジャンパーが風と合図をまって腰かけているアプローチ上のベンチに座ると、高いところが苦手ではない人でさえ、ドキドキすると思います。
同様に、ゲレンデの斜面の上に立つと、麓まで遮るものがなく、足元は落ち込んで、スルスルと滑るものをつけているわけですから、不安定このうえなく、立っているのがやっとの初級者は心底恐怖を感じます。

本当は、斜面のいかんにかかわらず、鉛直に対して制反対方向へ立たねばならないのですが、防御本能からか、無意識に山側へと腰から膝が引けてしまいます。
しかし恐怖でいっぱいいっぱいのひとに、何を言っても聞きわけてもらえるものではありません。
こんなとき、とくに相手が子どもなら「ホラ、しっかりしろ!」と気合を入れる指導者がいますが、最悪のコーチングです。
気合で乗り切れるのなら、滑る技術は精神論に拠ることになります。
そもそも、自分も初心者の時に感じたはずの恐怖心を棚上げしている時点で、指導者失格です。
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ではどうしたらよいのでしょう。
まずは「怖い」と感じている状態を受け容れるよう手助けすることからです。
私だったら、「自分も最初は怖かったけれど、そのうちに慣れますから」といいます。
けれども、そんな気休めを言われても、恐怖心が霧消するわけではありません。
その場でなら、目線を低くしてもらう、つまり座って頭を雪面に近い場所までおろして下を見てもらいます。
それだけでも、同じ絶壁がかなりゆるくみえるものです。

さて、それでも現実問題として滑って降りねばなりません。
技術が伴わない場合は、初心者~初級者コースをおろします。
これは、はじめて冬山に来た生徒さんにはよくやるのですが、せっかく寒い中山へ来たわけですから、なるべく見晴らしの良いところに一度は登ってもらい、「技術を身につけたらこんな景色を眺められる」ということを知ってもらうためです。
その意味では、下りもゴンドラやリフトに乗車するというのもありだとおもいます。
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しかし、それでは技術の習得や向上にはなりません。
そこから先は、実はひたすらより緩い、あるいは平らな斜面で練習してもらい、そこでマスターしたことを、山の上の急斜面で実践して馴れてもらうしかないのです。
むかし自分がスキーを教わっているとき、「緩斜面ではできるのに、急斜面にゆくとできなくなるのは、その技術の本質が身についていない証拠だ」といわれました。
不整地やコブ斜面は別にして、単に斜度ということでいえば、そういう面があると思います。
他のスポーツでも、楽器の演奏でも、基本がしっかりできていないと、より難易度の高い技術の習得が困難になりますよね。

上手な指導者とは、この退屈な基本練習を楽しみながらやってもらえるよう、生徒を乗せるのがうまい人のことだと思います。
ありていにいえば、自分が練習しているとき、どんな所に楽しみを見出したか、その経験をたくさん持っていて、状況と相手によってさまざまに繰り出せる人ではないでしょうか。
そして、緩斜面でつまらない基本練習を繰り返している際に、生徒さんの得手不得手を見抜き、「この人はこうすれば上へ行っても何とかできそうだ」というあたりをつけておきます。
そして急斜面へ行って、失敗しながらでも同じことを試してもらい、一度でもできたら誉めてあげるのです。
すると、できたという自信が、恐怖心を克服する特効薬になるわけです。
また、「あの練習はこれのためにあったのだ」と本人が納得すれば、苦手な技術も練習次第で習得できるという意欲にかわります。
教える側にも、教わることが多いと感じるのは、実にこの部分です。
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さらに、その練習の先に「スキーの醍醐味とは何か」を知ってもらうという目的があります。
20世紀のフランスの社会学者で哲学者のロジェ・カイヨワ(Roger Caillois 1913-1978)は、著書「遊びと人間」(“Les jeux et les hommes”)のなかで、遊びを「競争」(ギリシャ語でアゴーン“Agōn”)、「偶然」(ラテン語でアレア“Alea”)、「模擬」(英語でミミクリー“Mimicry”)、「眩暈」(ギリシャ語でイリンクス“Ilinx”)の4つに分けています。
スキーやスノボは、ひとに教わるということに注目すれば、「模擬」ですが、滑るという行為でそのものは「眩暈」です。
スキーやスノボは、オートバイや自転車のように、風を切って滑る爽快さがあります。
しかし、それだけではなく、斜面を下るという、落下に近い運動が加わります。
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「スキー」という歌の2番の歌詞に、「飛鳥の翼」とか「手練の飛躍」という言葉がありますよね。
実は、滑走中に遠心力に逆らってターンをするとき、原理的には弧の中心に向かってなのですが、そこは斜面なので、斜面の下方向へ向けて身体を落とすような感覚で運動します。
それが急斜面になると、ターンの前半でまさに崖下へ身を投げ出すような動作をし、そのあと体が宙に浮くような感覚になるのです。
私は、スキーの醍醐味とは、この谷底に向って飛び込むような感覚だと思います。

本音をいうと、私は高いところが苦手です。
遊園地に行っても、ジェットコースターをはじめ、落下系のアトラクションは拒絶します。
10mの高飛び込みは、若い時に何度かやりましたが、いまだに良い思い出にはなりません。
そんな私でさえ、初心者の時に、恐怖で身も心も逃げていた自分が、積極的に急斜面に飛び込むようになることで、まさに恐怖心を克服するという経験を得て、人にも同じような体験をしてもらいたいと思い、指導資格をとったわけです。
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これ、勉強も同じだと思うのです。
こつこつと要素を分解して重層的な難問を解く楽しみのわからない人に、基礎数学を教えることができるでしょうか。
つまらないと思う本でも読んでいるうちに夢中になるという経験がない人に、国語教師が務まるでしょうか。
わたしは、モチベーションを伝える以前の問題だと思っています。
義務を強調し、或いは精神論を振りかざす人ほど、本来の学問の愉しみを知らない人ではないかと感じます。

また、単に自分が有能であるとか、相手よりも技術が上という事実をひけらかしたい、そういう幼稚な動機がいつまでも自分の側に張り付いているのなら、その人は研究者や選手で終わればよいのであって、教師や指導者には向いていないとも思うのです。
もっとも、そこまで興味のある対象に取り組んで、かつ自己を冷静に分析できるような人であれば、教えるという行為の本質が理解できなかったり、見失ったりはしないと思いますが。
話をしていて、「この人は何がしたくて先生や指導者になったのだろうか」と感じる人を良く見かけるだけに、自分が人に教えるときは、たとえどんなにつまらない技術や知識であっても、この自身が教わる気持ちと、その楽しさを伝えるという目的だけは、忘れないようにしたいと思うのでした。
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