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旧東海道へブロンプトンをつれて 45.庄野宿

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庄野宿の江戸口である、国道1号線から150mほど入った庄野町西信号(34.887319, 136.527278)からはじめます。
左折すると庄野宿へと入ってゆくのですが、逆に右折して関西本線を踏切で渡って加佐登駅前を通り過ぎ、そのまま道なりに緩い坂をのぼって加佐登の集落に入り、駐在所の角を右折して、前回渡った椎山川を赤い擬宝珠のついた白鳥橋で渡ると、すぐ左側に現れるのが、加佐登神社(34.900278, 136.52721)です。
その背後には白鳥陵(34.901642, 136.525806)があります。
白鳥陵へは、白鳥橋の手前を左折し、加佐登調整池の堰堤脇の坂道をのぼっていっても、たどり着けます。
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古事記や日本書紀によれば、東征ののちに信濃から尾張または美濃に入ったヤマトタケルは、伊吹山の麓、関ヶ原や米原市の東部で白い大猪(日本書紀では大蛇)をやり過ごした後に荒天に遭遇、病身となって杖衝坂を越え、これより西南4.4㎞ほどの場所にある能褒野(のぼの=亀山市田村町)で没したことになっています。
そちらにも、古墳はあるのですが、こちらの陵は日本武尊が亡くなった時、一羽の白鳥が大和方向へ飛び去ったという故事にちなむ彼の墓です。
もっともヤマトタケル自体が伝説の人物なので、死亡にまつわる話にあわせて後から作られた墓と言われています。
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庄野宿の入口まで戻りましょう。
京に向って右側には、安藤広重の東海道五十三次の中でも傑作と言われる、庄野の白雨が掲示されています。
構図から見ると、鈴鹿川に沿った街道で、ともに笠を被ったすれ違う旅人と半裸の駕籠かきたちが、瀧のような豪雨に打たれている様子です。
現代の夏に高速道路を走っていると、稀に見る風景ではありますが、遠くから雨雲の下に近づいてゆくとき、雲の下には黒く雨が落ちているのを見て取ることがあります。
それが、雨脚の激しさによって、灰色から真っ白と色が変化してゆくのです。
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雨雲の下が遠目に観て白い時は、だんだん近寄るとスクリーンのように幕がおろされているように見え、さらに近づくと、滝のように雨滴が落ちており、雲の下に入るとワイパーを一番早くしても、何も見えないような豪雨になっています。
いちどそのような雨雲に新潟県内の関越道でお目にかかったことがあるのですが、ドライバーの私以外、車内は皆眠り込んでいたのに、雨雲の下に入った途端、車の屋根を激しく叩く雨音に、全員が目を覚ましてしまうほどでした。
広重の白雨もそんな激しい雨をあらわしているのではないでしょうか。
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庄野宿は東海道制定20年後の1624年、鈴鹿川の対岸から移住してきた人たちも含め、70戸でスタートしました。
石薬師宿と同様に、伊勢参宮道との分岐による旅人の分散によって甚だ振るわない宿で、最盛期でも総戸数110戸程度、本陣と脇本陣が一軒ずつ、旅籠が15軒というこぢんまりとした宿場でした。
あまりにも客足が少ないので、1815年には伝馬が半減されています。
これは近隣の農村にとっては労役賦課の減税であり、助かったのでしょうが、宿場の自活という点では厳しいものだったようです。
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入口から320mほど宿場に入った左側が、鈴鹿市指定建造物の小林家住宅で、現在は庄野宿資料館(34.884726, 136.525649)になっています。
開いているときに前を通ったことが無いので、中は観たことがないのですが、外見は古い家をそのまま使っているといった雰囲気でした。
さらにそこから160m、入口から480mの右側にあるプレハブ2階建ての集会所が、庄野宿沢田本陣跡(34.883582, 136.524619)です。
そこから240m先の右側が川俣神社(34.881811, 136.522860)。
この先すぐ、同じ名前の神社を続けてさらに2つ見かけることになります。
さらに310m進むとセンターラインのあるわりと古い道に合流し、さらに80mほど進むと国道1号線の汲河原交差点(34.878747, 136.520541)に出て宿場はおしまいです。
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庄野宿の江戸側入口から京側入口まで、およそ1,030m。
道幅は普通車がすれ違えないほどの路地ですが、ごくたまに三重交通のバスが入ってきます。
今井金吾氏の本には、昔からさびれていたこともあって、古い建物がよく残っている宿場と表現されていますが、現代ではかなり建て替わっていて、とりたてて宿場の雰囲気を色濃く残しているとは思えません。
日本橋から数えて45番目の宿場なのですが、これまで見てきた宿場の中でも屈指の「印象が薄い宿場」かもしれません。
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そのせいか、火米(やきごめ)を名物として手広く販売していたようです。
火米とは通常「焼き米」、「糄」と書き、いりごめ、やいごめとも呼ばれる保存食の一種です。
脱穀前の籾がついたままの米を煎ってから臼などでついて籾殻を取り去ったものをいい、器に入れて熱湯を注いで食べるか、そのまま噛んでたべるかするそうです。
当時はおやつのようなもので、食べると米の独特な風味が口に広がったそうです。
握りこぶし大の火米を青い帯で編んで俵状にして販売し、子どもへの土産として道行く人が買ったといいますが、美味しいのでしょうか?
クックパッドでみると、未完成の雷おこしみたいです。
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なお、宿場の南側を東西に流れる鈴鹿川ですが、この先旧東海道と国道1号線は、近江の国(滋賀県)との境にあたる、東海道二番目の難所、鈴鹿峠まで、この川の源流方向へと遡ることになります。
さきごろ開通したばかりの新名神高速は、旧東海道がこの先で渡る鈴鹿川の北側の支流、安楽(あんらく)川にさかのぼって安楽峠付近で県境を越え、鉄道の関西本線は南側の支流、加太(かぶと)川に沿って遡り、滋賀県伊賀市の柘植へと通じています。
いずれのルートも中部地方最後の峠、関西との境に向ってラストスパートという感じで、関東の人間にとっては、「ずいぶんと遠くまで来てしまった」という印象を受けます。
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現代の人間は、帰りは新幹線で帰ればいいやと思っているから気楽ですけれど、かの時代の人たちは、遠くまで来てしまったら往きはよいよい帰りは怖いで、帰る手間を考えたら、遠くへ来れば来るほど気が重かったのかもしれません。
もっとも、旧街道をゆく人の中には、旅芸人やささらものといった家を持たない人たちもいたでしょうし、侍の身分でも、いったん江戸に出たならば死ぬまで故郷に戻らないという人たちも大勢いて、彼らはまた、旅に対する覚悟が全然違っただろうと思います。
現代でも、旅をしていますと、一生に一度の出合いというものがあります。
一期一会ですから、この先どうかお元気でと心の中で祈ります。
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次回は汲河原町交差点(34.878747, 136.520541)を対角に渡ったところから、次の亀山宿に向って進みます。
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旧東海道ルート図(近鉄四日市駅入口~井田川駅前)
https://yahoo.jp/LNBqWD



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