(昨日からの続き)
えきから時刻表が秀逸なのは、上記の2タイプ、すなわち駅ごとの時刻表と、列車の運行を表した縦の時刻表の間を自在に行き来できるところです。
たとえば、略式の路線図から東京駅を押すと、地下鉄も含めた乗り入れ路線が全部並んでおり、それぞれの路線についての駅時刻表(横)と路線時刻表(縦)が上り下り別々に選択できます。
横タイプの時刻表から、自分が乗りたい列車を選ぶと縦タイプの時刻表に飛んで、当該列車の運行が一目瞭然になり、下車駅名を押すとまたその駅の横タイプの時刻表が出てくるといった具合で、これは乗り換えをマニュアルで探すのには紙の時刻表よりも優れているのでした。
さらに前後の列車を検討する場合、その路線の列車運行状況を把握したい場合は、路線時刻表を確認し、そこから各駅の横タイプ時刻表、気になる列車の縦タイプの時刻表へ飛ぶことができるわけです。
規則性をもって運行されているような路線でも、たまに「何でこの時間この区間にこの列車を走らせているんだ?」と疑問に思うような列車とか、臨時列車を見つけるのは、この路線時刻表が役に立ちます。
実際、冊子の時刻表を眺めていても、乗り鉄はイレギュラーな列車を楽しみにしている人が多く、それがダイヤ改正時だけでなく、毎月時刻表を買って眺める原動力になっていました。
さらに、スマートホンが普及するようになって、えきから時刻表は携帯性という面でも冊子の時刻表にはない優位性を獲得していました。
上述のように、旅の計画をたてるとき、様々な場合に備えてシミュレーションをするというのは常識です。
そして旅の計画を綿密に行う人ほど、旅に出てからでも状況にあわせて絶えずシミュレーションを行い、状況に合わせて旅を組み立て直すということを、頭の中では行っているものです。
これが、ひとつの旅程から別の旅程を導き出すヒントになります。
会社などで営業本部に勤めた経験のある人ならわかると思うのですが、新商品が発売になった時、刻々と入ってくる販売データによって複数用意していた打つ手を変化させながら、様々に対処してゆきますよね。
あんな感覚です。
特にブロンプトンをつれた旅の場合、天候や予定変更、何らかのアクシデントによって旅の途中であっても臨機応変にそこからの旅程を組み立て直すことはよくあって、車中で「えきから時刻表」をい検索するというケースはほぼ毎回ありました。
また、実際に行った旅程について反省し、ここはこうしたらもっと良かったのではないか?ということを宿泊の宿で行うときに、あの分厚い時刻表を旅に持ち出すわけにはゆきません。
いや、まだネットが普及していない頃、私は時刻表を抱えて旅をしていました。
他人からは「必要なページだけコピーして持てば」とか、「荷物になるからコンパクトな時刻表にすればいいのに」と言われましたが、シミュレーションをするので、そうはゆかなかったのです。
そのうちに、北海道などは行ったらすぐに書店に行って「北海道時刻表」を入手するようになりましたが。
私にとっては、時刻表なしで旅をすることは、辞書もなしに洋書を読むようなもので、会社に入ってからのたとえ他人が立てた旅行であっても、自分で検証しないことには気が済まないのでした。
(新入社員の時代、添乗へ行くのに時刻表と地図を持っていって夜に眺めていたら、仕事熱心だと逆に褒められました)
しかし、いくらネットが無い時代とはいえ、時刻表を持って旅するのはやはり大変で、スマートホンでえきから時刻表をひけるようになり、国土地理院の地図もネットで閲覧できるようになったとき、なんと便利な時代が到来したかと感じていました。
ここに書いたことは、いち旅マニアの思いであって、大半の人にとってえきから時刻表の終了について、検索サイトが他にもあるから問題はないのでしょう。
しかし、こと旅のプランに限ったことではありません。
私にはどうも世の中がどんどん易きに流れているように感じてならないのです。
安直というか、結果さえ手に入れれば経過などどうでも良いというか。
時刻表についてここまでくどくどと書いたのは、そういう感覚があったからです。
確かに単一の結果だけを求めるなら、経過や過程は重要な意味を持たないかもしれません。
ですが、結果の先のことを考え、或いは結果に深みや広がりを持たせるためには、やはり経過が大切だと思うのです。
東海道新幹線に乗って2時間で京都に到着するのも、2週間以上かけて旧東海道を歩いて京都へたどり着くのも、移動という事実に限っていえば同じことです。
しかし、そこでの失敗や苦労、発見や出会いを考えたとき、私には時間とお金のバランスでは測り得ない何かがあると思うのです。
ヴァーチャルリアリティでは体験できない何かがです。
学問も同じです。
いかに効率よく勉強して、試験の正答率を高めることだけを追求しても、それで事務処理能力は多少上がるかもしれませんが、仕事になったらAI(人工知能)には敵いません。
学問に対する本来の動機とは、学校の試験や、地位や名誉の獲得、自分が生きてゆくための手段としてでではなく、もっとその人なりのやむにやまれぬ思いから出るようなものだと思います。
それは、大方の他人にとって、とくに過程などはどうでも良いことなのかもしれません。
けれども、たとえ人から自己満足と蔑まれようとも、積み重なった経過と結果は、その人の人生の中で、かけがえのない宝になると確信しています。
世の中に無駄なものなどひとつもないのですから。
実際に哲学の古典を読んでいても、「これは魂の叫びだな」と感じる文章に出会うことがあります。
あたかも著者が目前にいるように感じ、「なぁ!君なら俺の気持ちが解るだろう?おい!」と見開きの間から両手が伸びて襟首をつかみ、揺さぶってくるような凄味を持っている本は、まさに忘れ得ぬ一冊になってしまいます。
(旅も読書も想像を働かせねばできないところは同じですね-笑)
そう言う意味で、旅も学問も効率だけを求めるのは邪道なのかもしれません。
もちろん人生には効率が求められる場面が皆無ではありません。
安全性を早急に確保せねばならないときなどがそうでしょう。
けれども人間の行った拙速な行為には、どこかしらに穴があるものです。
人間は神さまではないのですから。
必ず時間ができたときに見返し、その後も点検と改修を繰りす必要があり、それは放っておけばAIが自主的にやってくれることではありません。
えきから時刻表の終了に伴って、代替サイトを必死に探してみたのですが、これというサイトが見つかりません。
(交通新聞社の有料サイトが唯一の候補です)
自宅では紙の時刻表に戻ることを考えています。
あの、子どものころから親しんだ時刻表に戻るのは、原点帰りができるということで、楽しみです。
そして、旅先でのシミュレーションは、これまで以上に手間暇かけても、その土地ごとの交通機関のサイトを丁寧に調べ、現地の人からも情報収集することにいたしましょう。
ひょっとしたら、その方がネットにはない情報を収集できるのかもしれません。
旅が好きな人同士、めぐり合うことができれば、それも観光の原点であります。
旅を愛する人は、好奇心が旺盛で光を観ることのできる人だと信じます。
最後に忘れないように付け加えておきたいのは、日本の時刻表が有用であるのは、交通機関の定時運行率の高さに支えられているという現実です。
きわどい乗り換えが可能なのも、列車が定時に運行してこそです。
外国で鉄道旅行を経験したことがあるから分かりますが、時間通りに来ない鉄道にとっての時刻表とは、目安というよりは目標に過ぎず、旅の計画もそれを見越したうえでたてねばならないのです。
鉄道の発達した欧州でも、日本人の団体旅行がバス移動中心なのは、そういう理由からだと会社では教えられました。
ですから利用者たる旅人は、定時で運行している日本の事業者に対する感謝の念を忘れてはいけないと思います。
そして、ネットはあくまでも手段であって目的ではないという基本を再確認し、また有用なサイトが見つかったなら、出し惜しみしないでここでお知らせしたいと思います。(おわり)