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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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大垂水峠と自転車安全祈願にブロンプトンをつれて(その3)

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高尾山インターからおよそ1km、国道を駅方向へ下って2つ目の信号の右側が、高尾山薬王院自動車祈祷殿です。
成田山新勝寺や、川崎大師の平間寺、鎌倉鶴岡八幡宮にも、本堂・本社とは別に、こうした自動車祈祷殿は存在していますが、ここがユニークなのは自転車もご祈祷を受け付けてくれるところです。
まずは入って左手にある受付へ。
黒枠の自動車祈祷申込書とは別に、緑枠の御護摩・御杉苗申込書に住所と名前を記入します。
ここで祈願すると一年間どこかに氏名が奉納されるそうで、それで2枚なのだそうです。
「おねがいごとを○で囲んでください」とあって、家内安全、商売繁盛、厄除、合格成就…と、項目が20(!)もあります。
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さて、どれに〇をしたものか。
怪我が無いようにということであれば、身上安全か災難消除でしょうか。
穏やかな運転を心掛けたいということであれば、福寿円満?
長生きは関係ないような気もしますが。
そして、神棚交通、車内交通と、「交通」がつくところが2つありますが、これはお守りを置く場所のようですから、自転車は関係ないような気がします。
敢えて言えば車内交通でしょうかね。
できれば円満運転とか、より具体的なお願いが欲しいところです。
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申込書を書いて出したら、お守りの種類は金と銀のどちらが良いかと訊かれました。
自転車用はリング状のもので2種類あるそうです。
何だかイソップ物語に登場する樵になった気分で、銀の方をお願いします。
時間になりましたら祈願殿でご祈祷がはじまる旨を告げられて、お隣の休憩所に移動します。
休憩所にはお茶が用意してあって、薬王院の場合午前は9時から、午後は13時から、45分おきにそれぞれ5回ずつ行われる祈祷の時間を待つそうです。
自転車は車の前、祈祷殿の最前列に後輪部分だけたたんだ状態で停めました。
うーむ、ブロンプトンの場合結跏趺坐を組んでいるように見えなくもありません。
私は体が硬くて一緒にはとてもできませんが。
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さて、時間になると担当僧侶の登場です。
袈裟は着用しているものの、山伏の頭襟(ときん)をつけて、法螺貝まで抱えています。
お坊さんというよりは、見た目は山伏さんですね。
そうか、ここは天狗信仰(ご本尊は飯縄(いいづな)大権現=形相は鳥天狗)も含んでの修験道根本道場としての性格もあるので、この格好なのだと思っていると、法螺貝の口をつける部分をポンポンと叩いてブォブォーと吹き出しました。
時代劇だと侍大将が床几から立ち上がって文字通りの采配を振って、「皆の者、出陣じゃぁ!」とやるところです。
きっと御神体を呼んでいるのでしょう。
ミサの前の鈴の音より迫力あるなぁ(笑)
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そうこうしていると、「我れ昔より造る所の諸々の悪業は、皆な無始の貪瞋痴(とんじんち)に由り…」とはじまりました。
ああ、これ知っています。
そしてお次は「仏説魔訶般若心経~」ってこれもお馴染み。
ただ、ドンツクドンドンと太鼓を叩きながら唱えるので、途中うる覚えの私には聞き辛いのなんのって。
それでもこちらもまた何だか妙な勢いがあります。
つい先ほどまで、パイプオルガンの音色にあわせて「われら主を誉め、主を讃え…」ってやっていたものですから、ちょっと圧倒されてしまいました。
最後に火打石を一人一人の頭の上でカチカチ(八丁堀の旦那かめ組の頭にでもなった気分)してもらいます。
厄除けの切り火ってやつですね。
そして名前を呼ばれてお守りを受け取っておしまい。
宗教が違っても、祈りの根本は同じなのだなと、強く感じました。
と同時に、私はこうして比較してそれぞれの信仰について理解する環境を与えられている現状が、なんとありがたいのだろうと感じました。
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いただいたリング状のお守りですが、ブロンプトンに着けようとしても、どうにも径が合わないのです。
これなら、イタリアのコモ湖畔にあるギッサロ教会(自転車の守護聖人が祀ってある教会)の自転車用メダイみたいに、巻き付けタイプの方がいいかも。
御守りを眺めていて思ったのは、「運転中に癪封じができる真言でも刻んであったらいいのにな」という希望です。
今の世の中、「いかにして交通トラブルにおいて肉体的・精神的暴力をふるう人を避けるか(から逃れるか)?」というテーマでの話は、そこかしこにゴロゴロと転がっているのに、「いかにして自分が怒りや怨み、嫉妬などのネガティブな感情をふりまかないようにするか」という話題は誰も口にしません。
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先般話題にしたいじめの問題と同じく、人間というものは、自分が被害者になるというストーリーは容易に想像できても、なぜか自分だけは加害者にはならないという根拠のない過信を持っているものなのでしょう。
これは、何か事件があった時に加害者とされる人をバッシングする心理や、「私はこんなことをされた、絶対に相手を許さない」と、絶えず、いつまでも自分を被害者というポジションに置き続けようとする人と同じです。
私は人間関係を被害/加害の二分論で考えるのはどうかと思っていますが、仮に被害者がいるのなら、加害者も同じ数だけいるはずです。
ところが、「私は被害者なのです」と発言する人はそこかしこにいるのに、「私は加害者です」という人は見たことがありません。
冷静に見れば誠にバランスを欠いたものの考え方と言わざるを得ないのに、当の本人が偏った自己像を抱え続けていることに一向に気付いません。
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意識的にせよ、無意識にせよ、自分はいかに正しかったかと他人に滔々と説明したり、他人に対して陰湿な態度や怒りの感情をふりまき続けたりするとしたら、その人こそまさに加害者ではないのでしょうか。
周囲の人は、その人の感情のゴミ捨て場ではないのですから。
ただ、自己の惨めさを認めないためにも、自分を被害者の立場に置き続けて、攻撃とは最大の防御なりとばかりに他人を責め続けるほか、その人にとっての道はほかに無いのかもしれません。
こうした考えに凝り固まった人をそこかしこで見るにつけ、年齢や性別にかかわらず、そうした感情を暴走させたままの人たちが、今後とも増えるような予感がします。
 
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先日は対向してくる高齢者が運転する自転車があまりにもフラフラしていたので、停止して道を譲ったら、「危ない!」と怒られました。
また、店番をしている人に、「このお店のお休みは何曜日ですか?」と丁寧に訊いたところ、「この不景気に、休める日などあるわけが無いだろう」と怒鳴られたこともあります。
無言で唖然とした顔をしていたら、相手はバツの悪そうな表情を浮かべていましたけれど。
そうそう、私が「申し訳ありませんでした」と謝罪したところ、「謝って済む問題か!」と机を叩いて恫喝した老人もいましたね。
その人は、あとで皆の前で怒鳴った行為は謝ったものの、発言自体は取り消しませんでした。
心に余裕が無いのはわからないでもないけれど、あそこまで醜い生き方をしていたら、他人事ながら気の毒で惨めすぎます。
いくら取り繕ってみたところで、自分に対して嘘はつけませんからね。
けれども、それは当人の問題。
私の問題は、こうした理不尽ともいえる暴力に接したとき、いかに自己の側の怒りに執着しないようにするかです。
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この場合、相手のことは捨て置いて、僅かでも「自分にも何らかの問題があるのではないか」とか「自分が暴力をふるう側に回らないためにできることはないか」と考えることのできる人に対して、その助力となるような場や物を提供することが、宗教にできることではないかと思うのです。
自分のマイナス面を、自己の成長に役立てられるという意味では、教育にも大いに関係していることです。
今回は真言宗のお寺で心経を唱えたわけですから、それに関する弘法大師の言葉をご紹介しましょうか。
お大師さまは有名な『般若心経秘腱』(般若心経を密教の立場から解説した著作)の冒頭において、次のような言葉を残しています。
 
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夫(そ)れ仏法(ぶっぽう)遥かに非(あら)ず。心中(しんじゅう)にして即ち近し。
真如(しんにょ)外(ほか)に非ず。身を弃(す)てて何(いずく)んか求めん。
迷悟(めいご)我に在れば、発心(ほっしん)すれば即ち至る。
明暗(みょうあん)、他に非(あら)ざれば、信修(しんじゅ)すれば、忽(ただ)ちに証す。
【大意】
『一般に人々は仏法といえば尊く、優れていて、自分たちの住む世界とはかけ離れた世界のことだと思いがちである。しかしながら本当のところは、仏法が示す真理というものは、ずっと離れた場所にあるわけではなく、自分の心の中にあり、この自分の身体以外のどこにも存在するものではない。
また迷いや悟りとは、まったく別のものだと思い込んでいるけれども、それは自分勝手な思い込みに過ぎない。だから悟りに近づき、それをわがものにしようと決心し、自身が本来仏であると信じ、修行を重ねるならば、ただちにそれが実証される。』
(松長有慶著『訳注 般若心経秘腱』春秋社より)
 
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キリスト教にも悩みや苦しみは慰謝という恩寵と表裏一体であり、悩みを滅ぼそうと努力することは、自己を神の御座に少しでも近づけようとする、傲慢で浅薄な行為という考え(『神の慰めの書』マイスター・エックハルト著 相原信作訳 講談社学術文庫参照)があるのですが、ここで弘法大師が書いているように、迷いと悟りは人間の生きざまの両極端ではなく同じもので、ようはそれらにどう向き合うか、自分次第なのだとすれば、腹が立ち、不快な感情が出るたびに、人間は選択肢を与えられているということになります。
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聖書にも、「神に背く傾向があることが罪なのではない。背理しようと決心し、実際に行動することが罪なのだ」という意味の言葉があります。
ここでは運転を修行という枠におさめ、そういう気持ちで都度に自己のマイナス(癇癪)と向き合い続けるのなら、怒りは、もはやその人が悩まされてきた従来の怒りと呼べるものでなくなるのではないでしょうか。
そんなことを考えながら、自動車祈祷殿を後にします。
 
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この日は、祈祷の後に薬王院に登ろうと考えていたため、ケーブルカーの清滝駅まで行きました。
ところが、駅の周囲に駐輪場はありません。
駐輪をするなら、京王線の高尾山口駅高架下か、さきほど祈祷を済ませてきた自動車祈祷殿脇の駐輪場に停めて、そこから歩いてくださいと言われました。
どちらも清滝駅と距離にして400m離れています。
往復800mを歩くことになります。
せっかく折りたたみ自転車で来ているのだから、清滝駅のコインロッカーに入れることも検討したのですが、今日色々な体験をして考えたことをメモにまとめていたら疲れてしまい、そのまま京王線に乗って帰りました。
あとでお寺の住職に祈祷殿のみ立ち寄った報告したら、ちゃんと本殿にお参りしないとダメでしょうとたしなめられてしまいました。
これはもう一度行かないとダメそうです。
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