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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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力で人を支配できると信じる人たち

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今回は写真と本文は関係ありません。
写真は、何年か前の春先に城ヶ島を散策したときのものです。
水仙がきれいに咲いていて富士山もきれいでした
先日、お蕎麦屋さんで早めの夕食を食べていたら、テレビを観ていた店主が「こんなニュースは聞きたくもない」と吐き捨てるように呟くのが聞こえました。
顔をあげると、子どもの虐待についての報道でした。
その家は、奥の座敷で小さい子が遊んでいる店だったから、なおさらでしょう。
しかし、弱い立場の人を虐めるという行為は、年齢や性別にかかわらず、誰もが行うことです。
私も、虐める立場、虐められる立場とどちらも経験した記憶があるからよく分かります。
こういうと、「いや、私は虐めに加担したことも、虐められたこともない」と反論する人がいますが、どうでしょう。
 
あなたは家族から意地悪をされた記憶はありませんか。
逆に誰も傷つけたことはないと自信をもって言えるでしょうか。
或いは学校でクラス全員がある子を虐めているとして、自分では傍観しているような態度をとっているつもりでも、実際はその被虐待児と距離をとっていたのではないでしょうか。
あの、「自分も同じように虐め(仲間外れ)の標的にされたらたまらない」という恐怖とその場にはびこる同調圧力は相当のものですから。
だいたい、手を差し伸べずに傍観していること自体が、既にいじめの構造に巻き込まれていますよね。
それでも、「自分の周囲で虐めは見たことも聞いたこともない」という人には、「そうですか。それはラッキーでしたね」と言う外ないのですが。
教育現場の統計では、虐める側の子どもの大半は、元虐められっ子という統計があります。
かつて友だちや教師、親から虐められた経験が、虐める方に活きているとすれば、虐める・虐められるは本人と鏡像のような関係なのかもしれません。
 
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親が子を虐待する場合も同じだと思います。
大半の親は、子ども時代に同じように親から虐待を受けていたのではないでしょうか。
そこで、「力による支配」という人間関係に対する信念を受け入れてしまったのではないかと思います。
そうでなくても、どこかしらで「他人は力で支配できる」という考えをとりこんでしまったのだのではないかと思います。
自分は、私たち人間の殆どは、この宗教にも似た信念を捨て切れないと考えています。
力とは、腕力だけとは限りません。
お金、権力、言葉による暴力、徒党を組んでの圧力、国家権力による罰則など、他人や組織を自分の思い通りにするために、こうしたものを持ち出すことに、疑問を感じていない人が殆どではないでしょうか。
 
やっている方は、自分は選ばれた人間だとか、愛の鞭だとか、社会正義だとか、秩序の維持だともっともらしい理由を並べていますけれど、結局「自分の思い通りに他をコントロールしようとしている」ことに変わりがないと思います。
そうした人たちの決定的な盲は、自分もまた力による支配という信仰にとらわれていることへの自覚の無さです。
酷いケースだと、自分は正義のために敢えて暴力をふるっているのだなどというポーズをとります。
それなら、「自分も虐められた経験があって」と告白するほうがまだましな気がします。
(それでも八つ当たりしていることにはかわりありません)
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しかし、どのような言い訳をするにせよ、力による解決は何の効果も生みださないという事実は、完全に無視されたままです。
たとえば、何度実刑判決を受けても薬から足を洗えない薬物中毒者に対する世間の対応が良い例です。
薬物犯罪や性犯罪は再犯率が高いといいますが、それって刑務所に入ることが何の抑止力にもなっていないことの証左を突き付けているだけではありませんか。
クレプトマニア(=盗症・盗癖)などは、お金が無いという理由もなく、盗品には関心も無く、盗むという行為そのものにとらわれてしまっていて、それでも捕まると窃盗罪の法定刑は懲役刑しかなかったものだから、執行猶予判決を出してもまた繰り返して結局実刑となり、最終的に裁判所も煩雑になるし、矯正施設がパンクするからという理由で、2006年に刑法が改正されて罰金刑が加わったくらいですから。
前にそのことを専門の弁護士さんに話したところ、「いやぁ、検察官も裁判官も含めて、気付いている人はいますよ、でも実務に忙殺されてしまって…」とのお答えでした。
 
飲酒運転して検挙された結果の罰則や影響が怖いから、車の運転か飲酒のどちらかを永遠に断つというのであれば、それは一生飲まないでいようとか、車の運転はもうしないと誓っても、本心からやめたことにはならないと思います。
なぜなら、人間はうつろいやすいものだから。
あとで生活の条件が変わったり、飲酒運転の罰則がゆるい場所へ行って暮したりしたなら、その誓いを続けられるでしょうか。
そういう人が、同じ過ちを繰り返す時に言う言い訳は、決まっています。
「こんなことは自分だけじゃない、ほかの人もやっている」と。
結局、強制力による解決は、何の解決にもならないのです。
決して虐待行為を容認するものではありませんが、虐待した人を永遠に牢屋へぶち込めば、虐められた相手も救われて世の中が良くなるなどという、能天気な考えにも到底同意できません。
いじめっ子がいじめられっ子になったとて、役割を交代したにすぎませんから。
 
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では、どうしたらよいのでしょう。
私は、「以前は人を力で支配する生き方に縛られていて、(或いは人に力で支配される生き方に縛られていて)いまはその生き方を棄てている」という人の話を聞き続けるしかない気がしています。
例に出した依存症からの回復とよく似ているのですが、私たちの大半が無意識に陥りやすい「他人は金や権力で思い通りになる」という思い込みを無くすには、日々を新たにすることによって、その思いを棄てるしか方法は無いと思います。
自分のように、「お金さえあれば何でもできる」という価値観で世の中全体が動いていたバブル期を通り抜けてきた世代など、特にそうではないでしょうか。
「人間は、例外なく誰もが死までの時を、一日一日を猶予されて生き延びている存在だ」という意味の言葉を本で読んだことがあります。
死刑囚は平日の毎朝、刑務官の靴音に怯えるといいますが、私たちだって、就寝時に目を閉じたなら、翌朝に目を醒ます保証などどこにもありません。
ただ、来ないかもしれない明日を来るということにしているだけです。
だから、回復途上にあるアルコール依存症患者の言うように、「今日一日、力を行使する生き方を棄てる」という信仰にも似た気持ちを、日々新たにしてゆくしかないと思います。
 
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最後に、以前本ブログでご紹介した、ルイス・カンガス神父による「親の祈り」を再掲します。
自分たちがこのような祈りを毎日唱えられるような人間になるにはどうしたら良いのか、誰かをどうにかして自分の思い通りにしたいという感情が出るたびに、「子ども」を「相手」に、「大人」を「私」に変えて祈るようにしています。
 
神さま、もっとよい私にしてください。
 
子どもの言うことをよく聴いてやり、
心の疑問に親切に答え、
子どもをよく理解する私にしてください。
 
理由なく子どもの心を傷つけることのないようにお助け下さい。
 
子どもの失敗を笑ったりせず、子どもの小さい間違いには目を閉じて、
よいところをみさせてください。
よいところを心から誉めてやり、伸ばしてやることができますように。
 
大人の習慣や判断で、子どもをしばることのないように、
子どもが自分で判断し、自分で正しく行動してゆけるように、
導く知恵をお与えください。
 
感情的に叱るのではなく、正しく注意してやれますように。
道理にかなった希望はできるだけかなえてやり、
彼らのためにならないことは、やめさせることができますように。
どうか意地悪な気持ちを取り去ってください。
私がまちがったときには、きちんとあやまる勇気を与えてください。
 
いつも穏やかな広い心をお与えください。
子どもと一緒に成長させてください。
 
子どもも私も生かされて愛されていることを知り、
他の人々の祝福となることができますように。
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