石薬師宿のシンボルである石薬師寺山門前(34.897864, 136.548902)から、次の宿場である庄野宿を目指します。
この区間は過去にご紹介した「旧東海道宿場間短距離ランキング」(https://blogs.yahoo.co.jp/brobura/39724050.html)で、御油~赤坂間(十六丁=1.7㎞)に次いで堂々の2位(二十五丁=2.9㎞;)に入っている、距離の短い宿場間になります。
けれども、歩いた感覚では「すぐに次の宿場」という気分にはなれません。
というのも建物があまりない、野原のような景色をゆくので、街中よりも空が広く見えるからかもしれません。
石薬師寺前の緩い坂をくだってゆくと、250mさきで道は二股に分かれ、左は川の土手脇へ、右はその土手へと上りますので、左に進路をとります。
(右はその先で行き止まりになっており、人家はここで途切れます)
土手上に出ると、蒲川を蒲川橋で渡ります。
川下70mに単線の鉄道橋が架かっていますが、これがJR関西本線です。
歩いていると特にそう感じるのですが、内部駅であすなろう鉄道と分かれてから、久々に鉄道との邂逅です。
田舎では特に、鉄道線に沿っているというのは心強いものです。
とはいえ、本線と名乗りながら昼間の時間帯は上下それぞれ毎時1本というローカル線で、運が良ければ名古屋から亀山まで直通する快速「みえ」を拝むことができますが、これまた2両編成の、体裁からしてお客が乗っていないこと前提の列車なのでした。
蒲川橋を渡ったところ左側に榎がぽつんと一本あって、ここが石薬師の一里塚跡(34.895136, 136.548169)です。
ここから旧東海道は鈴鹿川の左岸にあたる国道1号線の上野交差点へ西南方向にまっすぐ続いていたようですが、鉄道と道路が建設された際に失われています。
仕方ないので一里塚跡の前を左折し、関西本線の檜山橋りょう下をくぐり、すぐ右折(標識があります)して、線路土手下の道をゆきます。
線路に沿って250mゆくと、今度は国道一号線の盛土部分にぶつかるので、そのまま道なりに左に折れ、すぐ先を右折してトンネルで国道をくぐります。
くぐったらすぐに右折すると、これまたすぐに椎山川という、ここから1.8km北西にある三重用水加佐登調整池から流れて来る水路にぶつかり、そのまま右折して用水に沿って80mすすむとT字路にぶつかるので、左折して橋をわたります。
そのまま道なりに直進すると、県道27号線の下をくぐって300m先で国道1号線に出ます。
石薬師一里塚跡からここまでの間、舗装はしているものの、軽トラック一台がやっと通れるほどの道幅で、鉄道や国道をくぐるトンネルも同様のサイズです。
線路や道路、用水路の両側は畑が広がっていて、春などはひばりがさえずっていて長閑なものです。
旧道が失われてジグザグに来たけれども、この雰囲気は昔から変わらないのかもしれません。
さて、国道1号線に出たら左折して180mほど戻り、上野交差点(34.891686, 136.542718)で横断します。
ここからは国道1号線と旧東海道が重なっている区間で、そのまま右折して国道の右側歩道をいっても同じことですが、最初に「道の左側を走る」と決めた以上、これを守ります。
道路を横断して右折し、国道1号線の左側歩道を西へ向かいます。
左手は鈴鹿川が国道に沿っているわけですが、河原の草が邪魔をして全く見えません。
ちょうど川の対岸が鈴鹿市の中心部にあたり、ビジネスホテルなのか、マンションなのか、中層の建物が河原を覆うススキの向こうに見え隠れしています。
鈴鹿市は、太平洋戦争前の昭和17年、海軍工廠や海軍航空隊の設置とともに市制が敷かれました。
いわゆる軍事都市として誕生したわけです。
終戦まで、ここでは航空機に搭載する機銃とその弾丸が一万人もの工員によって造られていました。
工員は徴用工8000人と動員学徒及び女子挺身隊員2000名から成っていました。
徴用工っていうと、今はすぐに朝鮮人のお話になりますが、当然日本人は彼ら以上に大量徴用されておりました。
また女子挺身隊員というのは男性が根こそぎ動員でいなくなった後の労働力を補う、国家総動員法下で定められた労働者集団を指します。
従軍慰安婦と混同する人もいますが、まったく別物です。
ただ、どこの国の人であれ、かの時代を恨むにしろ、諦めるにしろ、その時代を生きた人でなければ分からないことというのはあると思うのですよ。
それを後から生まれた自分たちが、今の価値基準で善悪を着けること自体、おこがましい行為に思えてなりません。
戦争が終わって、鈴鹿市に残されたのは広大な工場跡地でした。
戦時動員のためにできたような市でしたから、このままでは市の存続自体が危ぶまれます。
鈴鹿市は企業誘致に熱心に取り組み、1951年に呉羽紡績(のちの東洋紡)、53年に旭ダウ(同旭化成)、57年に倉毛紡績(同カネボウ)、60年に本田技研工業と、工場誘致に成功しました。
それが今の鈴鹿市を支えています。
本田宗一郎は、50㏄のスーパーカブ量産化に目処がついたと同時に、全国の候補地を行脚し、鈴鹿に工場を造ることを決めます。
ここに決めたわけは、他の候補地が接待攻勢をする中で、市役所が素朴な案内をしたからだとか。
いかにも彼らしい決定です。
そして、「ここに工場を造る」と社長が決めたあと、工場の計画・設計から施工までを、すべて平均年齢24~25歳の若い社員たちに任せて、自分や専務は一切口を出さなかったそうです。
彼は新聞に掲載された「私の履歴書」の中で、こんなことを言っています。
『私は若い人たちを高く評価している。私に言わせれば「若いやつはアプレで困る」という人がいるが当の本人はどのくらい古くさい思想の持ち主であるか身のほど知らずだと言いたい。
としよりは自分たちのやったことをよく反省し、現代に合致しているかどうかを考えたうえでなければ若い人を批判する資格はない。』
「アプレ」とは「アプレーゲル」(仏;après-guerre) の略で戦後に登場した無責任、無軌道な若者のこと。
本田宗一郎自身が若いころに「アプレ本田」の異名をとっていたはずです。
年寄りか若いかは別にして、「金は出すが当然に口も出す」(最悪な人間は金も出さないくせに口だけ出しますが)、そしてうまく行ったら自分の手柄、失敗したら他人に責任転嫁する人間が殆どの中で、カネを出しても口出しは一切しない、そして責任は全部自分が引き受けるという気風を持ったあの元祖アプレ社長は、お金と人間の本当の価値を公平に見積もっていたのだと思うのです。
国道は上下2×2の4車線で、住宅も店舗もない川沿いをゆきます。
本田技研鈴鹿製作所の向こうには鈴鹿サーキット(34.846105, 136.539000)があり、F1日本グランプリや2輪の鈴鹿8時間耐久ロードレースなどが行われます。
開催期間中、国道1号線のこのあたりは信号も少なく飛ばしやすい道なので、遠くからレース観戦に来て、感化されて帰路にスピードを出す自家用車を取り締まるため、ネズミ捕りや白バイなど速度取り締まりを行っているとききました。
バブルの頃は面白いように反則金が集まったらしいです。
上野交差点から720m、次の加佐登町信号(34.890249, 136.535305)を右折すれば500mほどで加佐登駅です。
旧東海道はそのまま国道1号線をゆき、さらに730m(上野交差点から1,450m)先の庄野町北交差点(34.886597, 136.528685)で右折(信号有)、そこから150m先の庄野町西信号(34.887319, 136.527278)を左に折れたところが庄野宿の入口になります。
次回はこの庄野宿の江戸側の入口から続けたいと思います。