インフルエンザが大流行しているみたいですね。
私は自転車通勤で喉をゼイゼイいわせて、途中から電車に乗ったり、朝ごはんを食べようと店舗に立ち寄ったりすると、急に暖かいところへ入ったせいか、温度差からせき込むことが多いのです。
もちろん、口に手を当てたり、マスクをしたりしてのうえですが、「ゴホゴホ」やると、急に周りの人が一歩下がります。
かといって、咳をすまいと意識すると、余計に喉が「ウッ」となってしまいます。
朝から汗だくで何をやっているのだか…。
しかし、超満員の通勤電車に乗らないで、自転車通勤するというのも究極のインフルエンザ予防であるわけです。
(体力がつけば抵抗力も増すわけですし)
先日、中目黒駅のホームから女性が転落し、車庫から入線してきた日比谷線の車両に轢かれて亡くなるという事故がありました。
死後、その人の身体からインフルエンザ・ウィルスが検出され、病気のためにホームから転落したのではないかという疑いがあるそうです。
インフルエンザって、イタリア語の“influenza”が語源で、英語いう”influence”ですから、「影響」のことです。
私も先日ノロにやられたとき、お医者さんから「今外へ出たら、あなたは街中にノロウィルスをばらまくことになる」といわれ、極力外出を控えました。
インフルエンザもまた、周囲の人々に影響を及ぼすゆえにその名前なのかと思ったら、実はそうではなく16世紀のイタリアで、季節の病気ともいわれるこの病が、星の運行に関係しているのではないかと思われたことに起因しているそうです。
それはともかく、事故の一報の直後、被害者とその周囲を責めるような言葉が横行しているのをみて、唖然としました。
曰く、歩きスマホだろうとか、流感に冒されているのに出勤強要されたとか、ホームドアを設置していない事業者が悪いとか。
よくもまぁ、知らない人や組織に対し、あるいはその場所へ行ったこともないのに、テレビや新聞の情報だけで批判を軽々しくできるものだなと、開いた口が塞がりませんでした。
ここのところ何年も、老若男女を問わず、自分ではよく調べもしないで、特にツイッターのような短文投稿サイトで、ただちに批判、非難を浴びせる人をあちこちで見かけますが、どうして短気な人が増えてしまったのでしょう。
自分がテレビや新聞、ネット等でニュースを読みたくなくなった理由もそれなのです。
特にテレビは、朝の起きがけから文化人や学者を名乗る人たちが、識者ぶった意見を言うのを耳にする生活をしてみて、自ら調べもしないでよく言えるなぁと思いながら、観ているうちに朝から怨嗟の言葉に囲まれているような気分になり、そのうちにテレビをつけこと自体が嫌になってしまいました。
それからは、テレビやネットに識者ぶって意見を言ったり、文章を発表したりしている学者さんの本は、読むのを避けるようになりました。
また、管理職という立場から、自分では思ってもいないことを、ネットに平気で公表する先生と呼ばれている人々の研究も、信用しなくなりました。
だって、自分の眼で見て判断せず、伝聞だけで批評したり、己の立場のために自分では考えてもいないことを発表したりするって、学問を志す人がいちばんやってはいけないことではないですか。
仮にきちんと学問的な業績を残しているとしても、一方でそういう行動が合理的だとしている人は、ダブルスタンダードな自己に気がついていないわけですから、研究の基礎そのものに信頼がおけない気がします。
高校生の頃に読んだ遠藤周作先生の小説に出て来る、裏表の顔を使い分けてそれを恥ともしないインテリ大学教授は、そこかしこに居るものだと、この歳になって思います。
自己は棚に上げ、正義の味方面して他人や制度を非難する人よりも、自己の弱さに向き合いつつ、他人や社会の弱点に共感しながら物事を良い方へと導く方策を考える人に教育者としての魅力を感じるのは、あの頃も今も変わりません。
私が本当の教育者だなと思う周囲の人は、知らないことについてマスコミから意見を求められても断るし、個人的に訊いても「その問題についてはよく分からない」と答えます。
自分の研究を深めれば深めるほど、それ以外の問題については無知の自分を認識して謙虚になってゆく人と、研究を極めたがゆえに地位を得て有頂天になってしまい、他人からの賞賛に足元が見えなくなってしまう人。
どちらが教育者と呼ばれるべき人間かは言わずもがなです。
そして、残念なことに、人間には上の二種類しか存在せず、中間はあり得ないのだと感じます。
さて、事故のあった中目黒駅ですが、日比谷線の始発駅でもあり、改札からホームまでのアクセスが容易な駅として、ちょくちょく乗車、下車ともしています。
今回、「ホームドアが設置されていないから」という意見を見かけました。
利用している人なら知っていることですが、中目黒駅は東急東横線側だけにホームドアが設置されています。
日比谷線側にホームドアが設置できないのは、編成、車両によってドアの数と位置がまちまちだったのを、入れ替えによって是正中だからです。
だから、中目黒駅に限らず、日比谷線全線でいまだホームドアは設置されていません。
しかし、それにもまして中目黒駅を利用して通勤している人たちの間で有名なのが、朝のラッシュ時の混雑です。
時刻は9時半くらいだったということで、オフピーク通勤の時間帯ではありますが、店舗型の職場など10時始業の会社であれば、まだ通勤時間帯です。
そして、中目黒駅は始発である日比谷線に乗り換える乗客が列をつくっているうえに、東横線側も後続の電車に乗り換える乗客で、通勤時間帯はごった返しているのです。
後続電車への乗り換えを詳しく説明すると、混雑を避けて横浜方面から各駅停車渋谷行きに乗ってきた乗客が、そのまま東京メトロ副都心線方面へ通勤する場合、渋谷駅では別ホームへの移動となってしまうため、ここで車内スペースに余裕ができるのを見越して、後から来る急行や通勤特急に乗り換えるのです。
渋谷駅はホームドアが設置してあるがゆえに、ホームがその分狭く、到着電車から乗客が全員降りてしまうと、人のはけが悪いのです。
結果的に、副都心線への乗り継ぎに時間がかかり、中目黒で下車して次の電車を待った方が早いということになるわけです。
そういう人たちが多数いるうえに、反対側には日比谷線の始発に乗るための列が、次の次くらいまで重層的に列をつくっているのです。
当然、プラットホームの両側に列が出来る格好になり、中央部を抜けようとしても幾重もの人の壁に行く手を阻まれ、全く移動できません。
同じ時間帯に「このままブロンプトンで新宿三丁目まで走ったら、確実に遅刻だなということがあって、中目黒駅前で自転車をたたんで上りホームへむかったら、エスカレーターであがった途端に全くホームを移動できないということがありました。
だから、危険を承知のうえ係員から笛を吹かれることを覚悟で、日比谷線側の点字ブロックや白線の外側を歩く人が後を絶たないのも仕方がないと感じるのです。
もし、病気で足元がおぼつかない状態だったとしたら、一本橋を渡るような感覚だったと思います。
そして、日比谷線が車両入れ替えをすすめていることも知っているから、ホームドアを設置しない鉄道会社を責めるのも酷な話だと思うのです。
そんなことより、具合の悪そうな人を周囲で見かけたら、「大丈夫ですか」と声を掛ける方がよほど大事だと思うのです。
ところが、、今は具合の悪そうな人を見かけると、露骨に「こっちへ来るな」、「あっちへ行け」という表情をする人が大半ですから。
たまに、「予防をしていないお前が悪い」とか、「病気になるということは普段からの自己管理ができていないからだ」という人がいますが、病にそういう一面があるのは否定しないにせよ、自分が病気になったと仮定して、人からそう言われたらどんな気持ちがするか、反対可能性を想像できないのだろうか、それとも、自分は病気になど絶対にならないという自信家なのだろうかと、訝しく感じてしまいます。
「誰かの、或いは何かのせいにしないと気が済まない気の毒な人たち」をみていると、私自身は、隣人が病気になったら、「自分にできることはないですか」と訊く人、自分が病気になったら「この病を引き受ける力を与えてください」と祈る人になりたいと、思うのでした。