石薬師宿の入口、北の地蔵堂(34.909132, 136.550247)の前から旧東海道を続けます。
この地蔵は延命地蔵と呼ばれる、江戸時代に建立されたもので、旅の安全、家内安全を祈願するものという説明がついています。
宿場を出てゆく人には道中の無事を、入ってくる人には厄介除けみたいな存在なのかもしれません。
そこから国道1号線を左に分けた旧東海道は、まっすぐに坂をのぼってゆきます。
緩くはありませんが、道幅も広く、ブロンプトンで登れないほどの急坂でもありません。
坂の中間より上あたりから、両側に家が立ち並び宿場に入ったことがわかります。
地蔵堂から460mほどで、右側に大木神社(34.906106, 136.546317)の入口を認めます。
この神社、もともとはより東の宿場のはずれ(JR河野=こうの駅方面)、高富城址付近にあったものが、この場所へ移ってきたそうです。
高富城といっても、戦国時代の土塁と館だけの砦のようなもので、城主片岡将監則高は、天正13(1585)年に徳川家康・織田信雄連合軍と羽柴秀吉が小牧長久手で戦った際、その前哨戦で羽柴方の武将に攻め込まれて討ち死にしています。
大木神社入口から100m先の右側の連格子が新しい家が、小澤本陣跡(34.904421, 136.548056)となります。
この家は明治に建て替えられたものだそうです。
この本陣の周りには背の高い松の木が生えていたので、「松本陣」とも呼ばれていました。
江戸時代中期には国学者の萱生由章(かよう よりふみ1717-1776)が、この家から出ています。
由章は伊賀上野城代の藤堂元甫(とうどう げんぽ1683-1762)に請われて「三国地誌」の執筆に関わっています。
「三国地誌」とは、江戸幕府が編集した国内地誌の一部で、伊勢、志摩、伊賀の三国の地誌をまとめたもので、全112巻にも及んだといいます。
島崎藤村の「夜明け前」の例を出すまでもなく、宿場の長である本陣の家は、その土地の文化の担い手でもあったわけです。
なお、石薬師宿は、お隣の四日市宿に比べて規模も人手もぐっと小さな宿場でした。
これは、四日市との間に日永の追分があって、伊勢参宮道の方へ人が流れてしまっていたことと無関係ではないと思われます。
膝栗毛の弥次喜多もそうでしたが、上方へ行くのにお伊勢さんをスルーしてゆくというのは、あの時代には罰当たりくらいの感覚だったのかもしれません。
対して京方からくる伊勢参りの参詣者たちは、東海道47番目の宿場である関宿の東の追分から伊勢別街道に入りますから、石薬師、庄野、亀山の三宿は、城下町である亀山は別としても、必然的にエアポケットのような状態に陥っていたと思います。
江戸後期の1815年には、業績不振によって幕府に対して宿場人足の半減を願い出て許可されています。
人通りの少ない宿場が客を呼び寄せるために使う手段は、今も昔も大して変わりがありません。
艶本の「旅枕五十三次」によれば、石薬師宿は数少ない飯盛り女(=幕府公認で人数制限のある遊女、すなわち公娼)よりも、招婦(手招きする女性=おじゃれ、すなわち私娼)が人数も多くて美人もたくさんいて、彼女たちは情が深いなんてことが書いてあるそうです。
やれやれ、人を呼び寄せるのになりふり構わずといったところでしょうか。
まぁ、今の世の中もご当地アイドルだのイケメンを前面に押し立てて客寄せする手法は、大差ないような気がします。
文化と風俗は、切っても切れない関係なのかもしれません。
さて、本陣跡と同じく道路右側、お隣が天野修一記念館(34.904122, 136.547815)です。
天野修一さんってどこかで聞いたような気がします。
そうだ、戦前からタイムレコーダーを発明、制作しているアマノの創業者です。
私はタイムカードのある事業所に勤務したことは殆どないのですが、たしかその世界では有名です。
本社が東急東横線の大倉山駅と菊名駅の間にあって、むかしは“AMANO”の字が車窓から見えました。
最初の特許は23歳の時にとった「A式綴紙器」だそうですが、綴紙器って何のことかと思って調べたらホッチキスだそうです。
タイムカードとホチキスということは、打刻機械に関して特許を多数持っているということなのでしょうか。
今ではかなりの田舎なのに、国学者の家のお隣は、明治の発明家の家とは、やはり街道沿いに住む人たちは、人との出会いや情報量が違うのでしょうね。
天野修一記念館の隣は自治会館、石薬師小学校校門を挟んで、石薬師文庫(34.903592, 136.547697)というおそらくは昭和のはじめ木造平屋建てがあります。
正面には佐佐木信綱が自らの閲覧所を寄贈したと説明があり、彼の歌が二句石碑になっています。
ふるさとの 鈴鹿の嶺呂(ねろ)の 秋の雲
あふぎつつ思ふ 父とありし日を
傾けて バイクを駆れる 群れが行く
鈴鹿の山は 父祖のふるさと
そういえば、宿場の入口からここにくるまで、たくさんの歌碑をみかけました。
佐佐木信綱って、私はてっきり鎌倉時代の武将(それは佐々木信綱)のことかとばかり思って、あまり気に留めなかったのですが、「夏は来ぬ」の作詞をした明治から昭和にかけての歌人(1872-1963)の方でした。
二句目なんてバイクが峠を攻めている情景を歌っていますが、佐佐木信綱が没したのは1963年で、ホンダが鈴鹿市に工場を立ち上げたのが1960年、有名な鈴鹿サーキットを開設したのが1962年ですから、最晩年の歌なのかもしれません。
文庫のお隣が信綱の生家で、その更にお隣が佐佐木信綱記念館になっています。
信綱は万葉集の基礎資料の発掘、編纂にも熱心で、お墓は谷中霊園にあります。
石薬師文庫はきちんと地域の図書館の役割も果たしており、伊勢国学に関する書籍の蔵書が充実しているそうです。
子どもの頃、「夏は絹」(冬は木綿~)だとばかり勘違いしていましたが、これがカ行変格活用の未然形であると知ったのは、高校生になってからなのでした。
それに、夏といっても旧暦の4月を歌っているから初夏の始めまる手前だということも、ずっと後になって知りました。
歌自体は小学生の頃に習ったにもかかわらずです。
そんなことを思って記念館の先の石薬師小学校南信号(34.902859, 136.547598)を渡り、今度は左側にある真宗高田派の浄福寺(34.902619, 136.548073)山門前をみると、ここにも信綱の歌が。
いきいきと目をかがやかし 幸綱が
高らかに歌ふ チューリップのうた
境内に保育園があるからこの歌なのかもしれませんが、幸綱さんはお子さんの名前ですね。
「チューリップのうた」は誰もが知っている歌ですが、あれが3番まで歌える人は滅多におりません。
ためしにその辺りで幼児教育に携わっている人に歌ってもらい、「そのあとは?」と訊いてごらんなさい。
それに、1番と2,3番では著作権の帰属先が違うのもミソなのですよ。
国語って、簡単なようで意外と難しいのですわ、阿弥陀如来様などと内心で笑いながら旧東海道を進むと、道は下りになり、掘割状になった国道1号線の上を瑠璃光橋という名の陸橋で渡ります(34.898994, 136.548304)。
渡った先、旧道と国道に挟まれて森になっているのが、宿場の名前の由来でもある、石薬師寺(34.898545, 136.548637 真言宗東寺派)でした。
東海道に五十三宿ありといえども、お寺の名前がそのまま宿場名になっているのはここだけです。
東京都品川区に品川寺というのがありますが、あれは地名が先でここのようにご本尊の愛称が宿場名なんて他にはありませんから。
寺の縁起によると、726年に修験僧の泰澄が森の中で出会った巨石を、薬師如来が姿を現したものと悟り草庵を設けたのが開創で、およそ90年後の812年に弘法大師が爪で薬師如来像を刻んで開眼したことで、嵯峨天皇をはじめ多くの人の信仰を集めたということです。
平安から室町にかけて多くの堂塔を有して荘厳をきわめたこのお寺も、戦国時代に入ると兵火に焼かれ、半日で焼失してしまい、江戸期のはじめに今の鈴鹿市役所付近にある神戸城主、一柳氏によって再興されたということです。
山門から境内に入って右に折れると、本堂への参道が続いていますが、そこに3段の階段があります。
ここで躓かないようにと、参勤交代の大名が角取りを行ったと伝わる階段です。
たしかに、無病息災を祈るお薬師様の眼前で、転んで怪我をしたら「なんだかなぁ」になってしまいますから、細やかな心遣いです。
ところで、薬師如来は薬壺を持っていらっしゃるのが特徴です。
いわゆる医の神さまですね。
真言は「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」で意味は「仏さまに帰依します。早く(願いが)成就しますように」ということですから、病からの治癒を願う人にとっては、「この苦しみから早く癒されますように」という風に解せます。
人間は病にかかると健康な時は実は与えられていたのだと気付き、謙虚になることがあります。
しかし、心の病など自分が病気に罹っていることすら認識できなければ、神仏にすがることもなければ、謙虚になる機会すらありません。
そういう意味で、病も含めて等身大の自己を見つめることのできない人たちは、可哀相な人たちということになります。
元気なときには神社やお寺に祈願に行くことを「迷信だ」と馬鹿にしていた人が認知症に陥ったとしたら本当に救い難いことだと、熱心にお参りをする年長者を見ていて思います。
なお、食事場所が全くないと前に書いた石薬師宿ですが、旧東海道沿いには本当にコンビニひとつ見当たりません。
前述した石薬師小学校前信号を左折して国道1号線を渡った先にあるお蕎麦屋さんか、信号の次の路地を右折していった先にある料理屋さんの2軒だけ(営業していれば旧東海道からでものぼり旗が並んでいるのが分かります)ですが、歩いている人にとってはこの数百メートルの往復でさえも、辛いかもしれません。
けれども、ここで昼食を逃すと、この先はもっと店舗など全くない道が続きます。
四日市を朝発ってこの付近でお昼を迎えた方は、無理してでも食事を済ませておきましょう。
旧東海道ルート図(近鉄)四日市駅入口~井田川駅前
次回は石薬師寺の前から庄野宿を目指します。