奥多摩湖は東京都の水がめとしてお馴染みの人造湖です。
ダム建設の調査自体は大正15年(1926年)からはじまったようですが、神奈川県の二ヶ領用水(多摩川から水を引いている)の水利権をめぐる調整が難航し、実際に工事が起工されたのは昭和13年(1938年)でした。
ダムの底に沈む小河内村には反対運動がありましたが、当時勃発した日中戦争(日支事変)と都民のコレラ感染防止のため、貴重な犠牲としてのダム建設を苦渋の決断で受け容れたそうです。
太平洋戦争の前にも、「いまは外国と戦争をしているのだから、国内で対立すべき時ではない」みたいな説得があったわけです。
村民は考えられぬほどの安価な補償費用を受け取って、945世帯6000人が移転を余儀なくされ、そのうちの一部は山梨県北巨摩郡高根町、すなわち今の清里高原へ移住したそうです。
この経緯を石川達三は「日蔭の村」に書き、東海林太郎は「湖底の故郷」に歌いました。
ダムの建設は第二次世界大戦による中断を挟んで19年も続きました。
全然知りませんでしたが、戦後の混乱期に共産党から破壊活動を受けそうになったこともあったようです。
結局87名もの犠牲者を出して、昭和32年(1957年)11月にダムは竣工しました。
ダムの縁に沿って青梅街道が通っていますが、お世辞にも歩行者や自転車に優しい道路とはいえません。
全体的に狭く、橋以外に歩道は殆どついておらず、トンネルについて、高さはあるものの幅は車がすれ違うのがやっとなので、自転車にしろ歩行者にしろ、トンネル通過にはかなりの恐怖を感じます。
トンネルの数は、都県境の鴨沢橋から小菅村方面への分岐点である深山橋までが1か所、深山橋から峰谷橋までの間が2か所に対し、そこから小河内ダムまで6か所もあります。
ダムに近づくにつれてトンネルが増え、交通量も増した分道も狭く感じて自転車の走るスペースは狭まる感じです。
深山橋から520mほど小河内ダム寄りの中奥多摩湖(旧川野)バス停から少し山の方へ登ったところに、有名な湖上を渡る廃ロープウェイが架かっていますが、現在北側の施設には近づくことができません。
もし見たければ、対岸の旧三頭山駅へまわるしかありません。
そして、この人造湖に航路が設けられたことは無いようです。
また貸しボートも見た限りではありません。
これは東京都の飲料水のうち20%弱を賄う奥多摩湖の水質を守るための意味もあるようです。
青梅街道を自転車で走っていても、上流に近い場所に架かっている2本のドラム缶による浮橋を除いては、殆ど湖面におりてゆく場所がありません。
峰谷橋から1.23㎞ダム寄りの鶴の湯トンネル入口、女の湯バス停前には、鶴の湯温泉の源泉供給所を認めます。
これは、旧小河内村にあった湯治場のお湯をポンプで汲み上げてここでタンクローリーに載せ、さらにダム寄りの鶴の湯温泉に配湯しているのです。
ダムまで行くと、駐車場には土産物店、そしてダム横には東京都水道局の運営する水と緑のふれあい館があります。
ダム脇には駐輪スペースはありますが、ダム上の道路へは、自転車は一切入れません。
工事殉難者の慰霊碑はダムを渡った対岸にあるので、行こうと思ったら歩くしか手段がありません。
ここは子どものころから幾度か訪れていますが、周辺道路と相まって、あまりひとに優しい感じがしません。
奥多摩湖だけを目的に自転車で走りに行くのは、ダム周りをみると少しきびしいかもしれないと感じています。
私はかつてダム建設反対を唱えて破壊活動を企てた人たちには共感できなくても、高度経済成長期に礼賛された、科学技術万歳、便利な生活をありがとうみたいな主張にも同意できません。
そうしてふれあい館の展示に接すると、どうしても「ダムがあるから云々」が巧みに刷り込まれているような気がします。
水道局のPR施設だから仕方がありませんが、申し訳程度に設けられた、奥多摩の歴史と文化コーナーをみて、ダムの湖底に沈んだ小河内村の人たちの悲哀を、いまの旅人がどれくらい感じることができるのだろうなぁと、ぼんやりと思うのでした。
昔の奥多摩の雰囲気を感じ取りたいなら、ダム湖最奥の鴨沢集落か、ダム直下のから駅方面へと\続くむかしみちにそれを求めたほうがよさそうです。
ということで、国道は危ないという実感も含め、ここからはむかしみちを辿ろうと考えるのでした。