新年あけましておめでとうございます。
2016年まで続けてきた大晦日のブロンプトンを利用した初詣&初日の出の旅ですが、ここ3年間は途絶えております。
鶴岡八幡宮、伊勢神宮外宮+内宮、成田山新勝寺と実験してきたので、川崎大師、明治神宮もやってみたいのです。
しかし、お寺を手伝っているからには、猫の手も借りたい大晦日に旅に出るわけにも参りません。
深夜にお手伝いが終了すれば、あとは帰るだけなので、湘南海岸のどこかから初日の出を拝むこともできるはずですが、さすがに朝型生活をしている人間には徹夜は無理で、早く帰って眠りたいのです。
ところで、浪馬のお手伝いしているお寺では、除夜の鐘に合わせて108枚のカードを配ります。
(108打目はお坊さんが撞くので、正確には107枚)
毎年、お大師さまの言葉を選んで載せるのですが、今年はその文言をわたしがチョイスして良いということで、次の言葉にしようと考えました。
「真言不思議 観誦無明除」
漢字から意味は何となく分かると思うのですが、読みは「真言は不思議なり 観誦(かんじゅ)すれば無明を除く」です。
平たく言えば、「(真言という)祈りの言葉は不思議なものである。本尊を観想しながら唱えれば、煩悩へのとらわれが取り除かれる」くらいの意味だそうです。
これは弘法大師空海が著した「般若心経秘鍵」という書物に出てくる言葉です。
現代風にいえば「般若心経に隠された秘密」という、電車の戸袋にありそうな題名ですが、密教の立場からの解説書ということです。
どの宗教でもそうでしょうけれど、祈りというものは信仰の無い、つまり「祈ったところで効果などあるわけがない」と普段から内心で思っている人が、お正月だからとか、困ったからと祈ってみたところで、本当に効果はないと思います。
祈りや黙想というものは、普段から習慣のある人だけにその効果が感じられるものでしょう。
また、余計なことは考えずに、一心に唱える経験を反復してみて、はじめて無明が除かれる思いを実感できるのではないでしょうか。
夏の行事で行われたお寺の法話も、たしかそんな内容の話でした。
だから、一年の節目くらいは自利のためではなく、無心になって祈ってみる習慣をつかむチャンスではあると思ったので、上記の言葉を選びました。
ところが、それに続く文字が、「一字含千理 即身證法如」(「一字に千里を含み 即身(そくしん)に法如(ほうにょ)を證(しょう)す」=一字毎に数えきれないほどの道理が含まれており、この身このままで如来の智慧を悟ることができる)となっています。
あれ?
5字×4(句)って何だっけ?
あっ、高校のときに杜甫の「春望」で習った五言律詩の半分の五言絶句です。
しかもこの5×4のかたまりにはそれほど中国語に詳しいわけではない私でも、何となく韻を踏んでいる気配を感じます。
つまり、この20字は詩文形式になっているので、途中でちょん切るわけにはゆかないのです。
(しかも、後半部分には密教の要諦である「即身成仏」の意も含まれているし)
(空を見上げると雪が…)
すみませんご住職、五言絶句に気付かずに、あやうく半分にするところでしたと謝りました。
金岡秀友校註「般若心経」(講談社学術文庫)によれば、弘法大師空海は「秘鍵」のなかで心経を4種の「呪」に分けてそれぞれが真言(マントラ)を指し、仏の真実語をあらわしていると解釈しているのだそうです。
つまり、彼は心経全体を真言と見做していたわけです。
それにしても弘法大師はあの時代に独学で学んだと聞いているのに、ずいぶんと中国語のセンスがあったのですねぇと感心していると、「だからお大師さまは天才だって言ったでしょう」と返されてしまいました。
確かに。
ネイティブでさえ、「詩作してみてください」といわれてスラスラ書ける人はそうそうおりませんから。
しかもこの五言絶句の中に言いたいことを殆ど含ませいます。
ここまで外国語に通じていたということは、もし現代のように飛行機で気軽に往き来できる時代であれば、いっそのこと唐に移住したいくらいだったのではなかったでしょうか。
それをお師匠(恵果)さんに「もう全部教えたから帰って密教を広めてください」と臨終の枕辺で言われ、20年の予定を2年で切り上げて早々に帰国したところ、利用されたり誤解を受けることもあったわけですから、晩年は高野山に隠棲するようになった弘法大師の寂しさみたいなものも、少しは分かるような気分になります。
そう感じたら、「祈りとは(実際に唱え続ければ)確かに効果はある」というお大師さまの声が、心に届いたような気がしました。
大晦日は、せっかくお寺に滞在しているのだから、掃除がてらに半分くらいまで覚えた般若心経の残りの部分を暗誦してみようかなと思うのでした。