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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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大弛峠にブロンプトンをつれて(その7)

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(閉校された分校の校門)

大弛峠までバスで上り、国師ヶ岳、北奥千丈ヶ岳を往復して峠の小屋まで戻り、早すぎる昼食を済ませた後、かつてのオフロード乗りの憧れ(とはいえ、現在は山梨県側全面舗装の)、川上牧丘林道を下って林道入口の柳平まで参りました。
時刻は1152分、まだお昼にもなっていません。
バス停で塩山へと戻るバスの時刻をみると、1525分と1640分の2便でした。
かつての分教場の下にあるキャンプ場の駐車場には、栄和交通のバスが停まっています。
下山客が降りて来るまで、しばしの休息です。
それにしても、帰りのバスの時間を気にしないでよいというハイキングは気楽なものです。
このまま乙女湖を右に見てかつての杣口林道を抜け、バスが来た道をそのまま辿って塩山駅へ滑り込めば、13時過ぎの上り電車に乗ることが出来、14時台には高尾に着き、17時前には家に帰れると思います。
早起きをしての弾丸登山とはいえ、2,500超の山に登って夕方そんなに早い時間に帰っているって、昔の山男の概念を覆すような山行きです。
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(柳平バス停)
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(柳平の正面には乙女湖が見えます)
 
しかし、今回は登山でかいた汗を温泉で流す!というもう一つの目標があるため、塩山には向かいません。
塩山駅の近辺にも温泉はあって立ち寄り湯もありますが、どうせなら山梨の温泉として浸かってみたかった温泉に立ち寄りたいわけです。
バイクで来たときは、宿泊でもないのに温泉に入ってから帰ったら、夏以外は風邪をひいてしまいそうでしたし、ドライブ帰りに立ち寄り湯というのは、現代の行楽客もよくやるパターンだとは思いますが、ハンドルを握る側からすると、高速道路が混んでしまうし、渋滞でもしたら居眠り運転を誘発するし、だいいち車で行けるような場所はどこも芋洗い状態だから行きたくないというのが本音でした。
その点、ブロンプトンならその気になれば特急のグリーン車に乗ってアイスでも頬張りながら居眠りしたまま帰れるではないですか。
それに、バイクや車と違って身体を動かす運動の後の温泉って本当に気持ちがよいのです。
それは大学時代水泳部の合宿で練習後に温泉に浸かったら、同じ水の中にもかかわらず天にも昇る気分になって実感しました。
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(乙女湖 左に見えるのが金峰泉)
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(焼山峠)
 
さて、麓へ一直線の道を左に分け、琴川ダムの人造湖である乙女湖を左に見て、焼山峠へ向かいます。
昔はダムもなく、もちろん湖もなくてただ濃い緑の深い谷間に金峰泉というひなびた鉱泉宿がありました。
ダムが造られた時、旧道が湖に沈んでしまうためか、源泉を確保したうえで新しく付け替えられた道路の位置に移転し、きれいになったことは知っていましたが、この時点ですでに休業していました。
この道は「クリスタルライン」と名付けられている観光林道で、自分が高校生の頃から舗装されていまして、山梨県も集客に力を入れているのは知っていましたが、この道路はちょうど甲府駅の北側に位置する山々を横切るようにいくつも峠を越える道で、眺望がとりたてて良いわけでもなく、どうなのかなと思っていました。
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(栄和交通のバス)
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(クリスタルラインの案内図。今回は赤い矢印のルートでくだります)

焼山峠もそのうちのひとつの峠で、同じ塩山からでも牧丘町牧平を通って鼓川の源流へ進み、焼山峠を越えて柳平に入るこちらのルートの方が、琴川に遡って進む杣口林道よりもメインルートでした。
前座の山の峠なので、逆側から登ればたいしたことないだろうとブロンプトンで進んだところ、柳平から2.5kmほどの距離を15分ほどで焼山峠に到着しました。
ここまで柳平から70mの高低差を下ってそのまままた70mを登った計算になります。
ふとみると、脇の駐車場に行きに乗ってきた栄和交通のバスが停車しています。
車止めをつけて、どうやらこちらでも運転手さんはお昼寝のようでした。
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さて、このまま直進しても同じ塩山駅へ戻るだけなので、クリスタルラインに沿って右折し、乙女高原まで上がります。
今度も焼山峠からの距離は2.5kmで、自分の記憶では大した登りではないだろうと思っていました。
ところが、こちらは焼山峠までの登りとうってかわって、手ごわい急坂でした。
こちらは高低差がプラスでおよそ190mもあるのです。
おかげで、冬でもないのに喉をゼイゼイいわせながらときには道路幅いっぱいを使ってジグザグに登る羽目になりました。
唯一の慰めは、二つの峰に挟まれた湿地帯のような谷を登るため、道路際に咲いたアザミやアヤメの花を眺めることができたことでしょうか。
乙女高原まで20分ほどの登りでしたが、かなり汗をかきました。
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(湿原の桟道を認めたら、乙女高原はもうすぐです)
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(乙女高原。なるほど、元スキー場です)
 
1232分乙女高原到着です。
前にも書きましたが、ここは1951年冬に開設された、山梨県で第一号の競技スキーもできる本格的スキー場でした。
自分が子どもの頃の新聞には積雪便り(スキー場の積雪情報)のコーナーに、ちゃんと乙女高原も載っていたと記憶しています。
それ以前は、秋から冬にかけて萱を刈り取る採草地だったそうです。
刈り取った萱は、牛馬の飼料にしたり、焼いて畑の肥料として撒いたりしていたということで、田畑の後ろに控えた山は、麓の農家にとって大切な財産だったのだとわかります。
それはスキー場の開設後も引き継がれました。
木造のロッジ(今はネイチャーセンターとして使用されています)は閉鎖されていましたが、前のテラスには昭和50年(1975年)頃のスキー場の写真が掲示されていました。
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そうそう、登山用のアノラックにイカ帽って、昔のスキーヤーはこういう格好でした。
リフトもロープトゥも見当たらないので、担いで登るようで、いい運動になりそうです(笑)
さらに観察すると、セッティングされているポールが竹です。
これ、現代の可倒式ポールに比べ、当たったら目茶苦茶痛いのです。
だから昔のレーサーはポールを避けるように滑っていたと思います。
その後、上半身をポールの内側に入れるようになって、ポールもプラスチックに変わりました。
現代はセーターの内側やグローブにプロテクターをつけて滑るのですが、それ以前のレーサーは服脱ぐと二の腕から肩にかけて真っ赤に腫れあがっていたなんて聞いた記憶があります。
左下の写真は、ゼッケンをつけてバッジテストでもやっているような雰囲気ですね。
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(ああ、誰もいないし昼寝がしたい)
 
ただ、この乙女高原は人手不足から下草の刈り取りが行われなくなり、2000年のシーズンを以てスキー場も閉鎖されてしまいました。
私は暖冬による雪不足が原因かと思っていたのですが、そういうことではないみたいです。
もっとも、バブルの頃にスキー場は雨後の筍のようにオープンし、乙女高原のような索道の貧弱でアクセスも悪い老舗スキー場は、次から次へと閉鎖されていました。
いまは、元の山に戻すべく放置しているのかと思いきや、草刈り場としての姿を残そうとボランティアが定期的に草を刈っているようです。
訪れたのは7月でしたから、ツツジは終わっていました。
草原の花で写真を撮ったのは、ヤマオダマキとヨツバヒヨドリかな。
どちらもまだ完全に花が開いた状態ではないようで、よくわかりません。
お弁当にはおあつらえ向きのテーブルとベンチがありまして、持ってきた本を顔にのせて昼寝でもしようかと思ったのですが、アブがブンブン飛んでいて虫よけスプレーの小缶を持って来るのだったと後悔します。
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そんなわけで、乙女高原では写真を撮ったら出発にしました。
トイレは先程の焼山峠で済ませました。
ブロンプトンで山の林道を走る場合、トイレがあったら迷わず止まって済ませましょう。
バイクや車と違い、自転車の場合は林道踏破には時間がかかり、下手をすると2時間以上もトイレにありつけないということもありますから。
乙女高原のロッジから少し登ったところで道は二手に分かれます。
直進はクリスタルラインでここから荒川へ向かって下り、そこから再び上りにかかり、木賊(とくさ)峠を越えます。
木賊峠を越えた先は北杜市の須玉町です。
手前の荒川を下ると、荒川ダムより下に昇仙峡、その先に湯村温泉、JRの駅でいうと甲府の先の竜王駅へと下ります。
今回はここで左に折れて、荒川の東側の尾根筋にあたり、水ヶ森林道を走ります。
焼山峠から乙女高原までの上りでけっこうばてているのに、水ヶ森林道の入り口もまた上りです。
やせ我慢しないで柳平からまっすぐ塩山へ下ってゆけば良かったかなと思いながら、ペダルを踏むのでした。
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