今日は自転車通勤途上にある碑文谷公園の紅葉を写真でご紹介しながら、全然関係ないことを書きます。
ここのところ怪我をしていて一ヶ月ほど自転車通勤ができなくなっていました。
左手の手のひらを痛めてしまったため、ハンドルを握ることができなかったのです。
その間、新宿との往復はオール電車でした。
改めて、電車通勤一択というものは、息が詰まりそうだと実感しました。
たとえ電車通勤であっても、ブロンプトンを持っているか持っていないかで、車内での心の持ちようがずいぶん違うとも思いました。
そして自転車で通えるようになってから、途中にある教会に立ち寄ったら、ああ、やはり最低でも週一度はしかるべき場所で祈らないとダメだとも実感しました。
ところで、通っている最中に駅でみかけたポスターにこんな標語がありました。
『つい、カッとなった。人生、ガラッと変わった』
これ、駅構内や電車内における暴力沙汰を抑止するためのポスターですが、どこか日本語がおかしく感じませんか。
自分だけかとおもったら、ネット上にも「ポジティブな雰囲気が出てしまっているように感じる」という意見が多くて、奇妙に思うのは自分だけではないのだと安心しました。
「ガラッと」という擬音は、障子や襖など、横に引いて戸を開けるところからきているのです。![イメージ 3]()
ということは、閉じているものが開くというわけで、表現の内容に視界や展望が開けるというニュアンスが入ってくるのです。
引き戸を「ガラッと開ける」とはいっても、「ガラッと閉める」とは表現しませんよね。
それをいうなら、「ピシャリと閉める」です。
だから、「ガラッと」にはポジティブなニュアンスが入ってしまうのです。
暴力沙汰を起こして逮捕され、人生が暗転したことを示唆したいのであれば、同じような言葉で表現するのなら、『つい、カッとなった。人生が目の前でピタリと閉じた』じゃないですか。
どうしても『ガラッ』という擬音を使いたいのなら、『つい、カッとなった。人生の土台が足元からガラガラッと崩れ落ちた』だと思うのですよ。
そんなところから、前回話題にあげたロード・レージについて考えをめぐらせていました。
私はこういうポスターを評価しません。
これを読んで自省(自制ではありません)する能力のある人ならば、そもそも暴力なんぞ振るわないでしょうし、自分の内面が怒っているかどうかも顧みられない人間に、何を言っても無駄ですから。
下手をすると『カッとなった結果、スカッとした』と勘違いされかねません。
それに人間はその時々によって状態が変わります。
常時「ついカッとならない自分」をつくろうなんて思っても、ロボットじゃないのですからできません。
そんなことより、怒りをコントロールできない自己に無力を認める方が先だと思うのですが、これがなかなか簡単にはできないのです。
堪え性があるとか、自制心をもってとか、まだ自分の力で何とかしようとしている限り、自己に降伏はできません。
『わたしはカッとなる自分をどうにもできません。だからいつも自分で何とかするのを諦めています。』という人の方が、よほど信用できます。
このように、自分の信じる宗教では、「神さまに向かって憤る権利を手放しなさい」ということになるのです。
聖書にもありますよね、「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ人への手紙)って。
実はお寺の方で虫封じならぬ、癇癪封じみたいなことができないのかと思っていたのです。
真言や梵字を手に書いたり、護摩を焚いて祈りを捧げるのも、結局表現の違いでしかなく、同じような意味なのではないかと思いまして。
この辺りに、お寺の役目である、お詣りする人に安身立命(仏教用語では「あんじんりゅうみょう」と読みます)の気持ちを持ってもらうヒントがあるような気がしてなりません。
逆です。
自他を叱咤し続け、間違った努力を省みない人間が、最後まで力に訴えるのです。
「暴力を振るう=自分の力で何とかしようとする」そのものですから。
なぜ権利を放棄する人が怒りに塗れるのか、意味が分かりません。
これからお酒を飲む機会が増えるシーズンだから例に出すわけではありませんが、自らはお酒を飲むことで仕事の憂さを晴らしておいて、その実アルコール依存症の人たちの援助職をしているとんちんかんな人をかつて知っていました。
彼女は「私はお酒に飲まれたことはない」と言っていました。
お酒を飲む、飲まない、の選択肢を持っている人なら、わざわざそんなことを他人には言いません。
その言葉の裏に、自分が援助する対象の人たちへの軽蔑を感じました。
彼女を見ていて、自分は依存症の援助職には絶対になりたくないと思うとともに、自分の問題を転嫁するために人の問題にかかわることの卑しさに呆れました。
あんな風に仕事をするなら、どんなに惨めでも、心に正直に生きた方がましです。
あの人は決して「私はお酒(を飲む自分)に対して無力です」とは本心から言えないのだろうと思います。
それを認めたら仕事と信用を失いますから。
でも、逆をいうとお酒に飲まれて何かよからぬ事態に陥り、仕事と信用を失ったときに、はじめてお酒に対して無力を認めることが可能になるのではないでしょうか。
だから、ついカッとなって人生が暗転したとしても、まだその先があるのではないかな、それは、本人も含めて誰も予測のつかない方法で救われるのではないかな、とそんなことを考えるのです。
あっ、自分は自制心があるから暴力は絶対に振るわないし、お酒も量を間違えないという自信満々の人は、どうぞ聞き流してください。