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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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旧東海道へブロンプトンをつれて 43.四日市宿から44.石薬師宿へ(その2)

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旧東海道と伊勢街道の分岐点、日永の追分(34.935581, 136.598171)から石薬師宿方面へと向かいます。
210mさきで、四日市あすなろう鉄道内部線を踏切で渡ります。
軌間(レールの間の)幅に注目です。
すぐ左脇に追分駅(34.933935, 136.596100)を認めます。
一つ目の路地を左折し、ここからは内部線を左に見ながら南下します。
住宅街のなかを進むこと600m、右手に浄土真宗高田派の大蓮寺(34.930166, 136.590658)、黄檗宗の観音寺(34.929871,136.590585)と続いた後に、路地の奥に見えるのが小古曽神社(34.929889, 136.589088)です。
創建年代は不明ながら、延喜式に名前があるため、平安時代からあるそうです。
ここでは粥試しの神事が行われています。
粥試しとは、お粥を盛った器を放置し、残った米粒の具合で、翌年の稲作を占うというもの。
 
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(追分駅脇で踏切を渡る)
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(大蓮寺)

その先で旧東海道はクランクします。
正面に見えるのは、やはり真宗高田派の願誓寺(34.929352, 136.588970)。
あれ、また高田派のお寺だと思ったら、大蓮寺も願誓寺も室町時代後期に、真慧(しんね)上人により真言宗から改宗しています。
真慧(1434-1512)は、下野国高田(いまの栃木県真岡市)にある高田専修寺の出身です。
高田専修寺は、鎌倉時代の中期にあたる1225年、親鸞聖人が夢のお告げを得て、専修念仏の根本道場を開いたのがはじまりです。
高田派の第10世である真慧は、のちにここより南の伊勢国一身田に無量寿院を建立ました。
その後の戦国時代に下野の専修寺が兵火によって焼かれたことから、僧侶や寺宝を移し、時の後土御門天皇による綸旨を得て、無量寿院を本山専修寺と改め、以降高田派の本山になっているそうです。
真宗高田派の総本山は伊勢にあるとはなんとなく知っていましたが、その名前は真岡市の地名だったとは全く知りませんでした。
高田は真岡市の中心部より南へ、電車の駅でいうと、真岡駅とJR水戸線新治駅の中間くらいに位置します。
なお、その場所にもとの専修寺が本寺専修寺として江戸時代に再興されています。
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(小古曽三丁目交差点で県道と交差する)

願誓寺から400m南へ行くと、小古曽三丁目交差点(34.926181, 136.586636)で県道に出ます。
左手の大きな病院の建物の陰で見えませんが、この交差点のすぐ東に内部駅があります。
構内には車両基地というにはあまりにもかわいらしい車庫があり、かつてはパステルカラーに塗られた小さな電車が並んでいました。
ナローゲージの電車って、模型と本物のあいの子みたいです。
四日市からここまでは鉄道が並走していたので、いつ雨が降ってきても四日市方面へ引き返すことができました。
しかし、ここから先は鉄道は並行しておりません。
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いや、正確にいえば1.5㎞左手の鈴鹿川沿いにJR関西本線が走っていますが、ブロンプトンならともかく、駅まで歩きではかなり遠いと思われます。
また、四日市より南の関西本線は、平日の昼間なら毎時3本、朝夕なら毎時4~5本程度の列車運行です。
つまり、駅までがんばってたどりついても、最悪20分間電車が来ないということになります。
もうひとつは、国道1号線上を走る三重交通の路線バスです。
四日市平田町線という路線なのですが、こちらはさらに運行間隔が開いて、1時間に1本、昼間は2時間に1本という間隔です。
金谷宿から日坂宿にかけての、並走公共交通機関がほぼ皆無という状況よりは、あるだけましですが、旧東海道に隣接している鉄道駅は、2つ先の庄野宿の手前、加佐登(かさど)駅までありませんので、注意しましょう。
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(内部橋は左側歩道を渡る)
 
旧東海道は県道には入らず、そのまま直進し内部川にぶつかります。
昔はここに、内部橋が架かっていました。
現代はここで左折して60m下流の国道1号線内部橋(34.922750, 136.583230)を渡ります。
現行の内部橋の南詰は、川沿いの道がアンダーパスになって交差しており、京に向かって右側の歩道を渡ってしまうと、その先で旧東海道にアクセスしづらいので、横断歩道が無くて面倒くさいのですが、北詰めの信号で国道を渡ってから右折して橋を渡りましょう。
歩いているときは橋の左側の歩道が工事中で潰されていて、右の歩道で橋を渡ってしまい、南詰でぐるぐる回ったあげく、次の信号まで行ってから国道を渡って、戻ってくる羽目になりました。
歩いていても、自転車でも同じことなのですが、国道のような大幹線道路と橋には要注意です。
内部川は鈴鹿山脈の鎌ヶ岳(標高1,161m)を水源とする1級河川で、源流部の宮妻峡は、江戸時代に伊勢菰野藩の歴代藩主がモミジ以外の樹木を除去していたとかで、秋の今頃は真っ赤になるそうです。
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(下から見た感じでは、丘が低いので難所とは思えません)
 
橋を渡ってから90mさきの路地を斜め左に入れば、旧東海道に復帰です(34.921646, 136.582103)。
国道から路地へ入ったところから300mで、旧東海道は右折、左折とまたもやクランクを繰り返します。
クランクの後、小高い丘が目の前に立ちはだかり、急に登坂に差し掛かります。
これが杖衝坂(34.917722, 136.579914)です。
古事記の記述によれば、111年、伊吹山の神との戦いに敗れた日本武尊(やまとたけるのみこと)が、病に冒されながら剣を杖代わりにしてこの坂を登り、その際に、「吾が足三重の勾りなして甚く疲れたり」(私の足は三重に曲がってしまったようになり、とても疲れた)と嘆いたとあるそうです。
これが、現在の三重県の名前の由来です。
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脚が三重に曲がるって、普通にしゃがめばそうなりますがな。
日本武尊というと、これまでの東海道上では勇ましい話が多かったのですが、この坂ではかなり弱っている姿が浮かびます。
なお、この坂の上にある血塚社(34.917009, 136.579302)という何やらおどろおどろしい名前のお社は、日本武尊の血で染まった石を集めて祀っているということです。
あれ、転んで怪我でもしたのでしょうか。
怪我と云えば、のちの世のこの坂で松尾芭蕉があまりの急こう配のために、馬の鞍ともども落馬するという事故に遭いまして、「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」という句を詠んでいます。
江戸方向から大阪方面へ向かっているところだったということですから、登り坂を尻もちをつくように後ろへひっくり帰ったのでしょう。
「歩行ならば・・・」というあたり、クリント・イーストウッドばりに、「こんちくしょうめぇ」と、お尻を押さえながら鞍を蹴っている姿を想像してしまいます。
 
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(斜度はあるものの、長さは200mちょっとの坂です)

なお坂の途中に大日堂があり、その上には弘法の井戸があります。
例によって、杖でつついたらというやつです。
坂自体は200mちょっとですし、「箱根峠、鈴鹿峠に次ぐ難所」などといわれても、それこそ金谷坂や日坂のように、もっと手ごわい坂はたくさんありました。
思うに、山がちの場所でアップダウンが連続するような場所よりも、この杖衝坂のように、平坦な道が延々と続いた後に現れる坂の方が、昔の旅人にとってはきつかったのではないでしょうか。
思い返してみると、池鯉鮒宿から鳴海宿にかけての丘陵地帯を抜けて以来、濃尾平野を突っ切ってここまでくる間に、坂らしい坂はありませんでした。
江戸をたって、品川、保土ヶ谷と平坦な場所を通り、最初の難所である権太坂を登り切った先の、品濃一里塚付近に投げ込み塚跡があったのを思い出しました。
日本武尊も長旅の疲れがたまっていて、ここで力尽きたのかもしれません。
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次回はこの杖衝坂上の血塚社(34.917009, 136.579302)前から続けたいと思います。
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旧東海道ルート図(近鉄四日市駅入口~井田川駅前)



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