海辺に住むのと山の辺に暮らすのと、どちらが好きかという話を知り合いとしていました。
よく海は母親や女性に喩えられ、対する山は男性的で父親に喩えられます。
だからかどうか分かりませんが、海の民というとのんびりしていて広やかな心を持つ人を想像し、山の民というと、頑固で辛抱強く信仰に厚いというイメージがあります。
あくまでもイメージで実際には人それぞれだとは思いますが。
小さい頃、鎌倉の家はすぐ裏が山で、子どもの足で海岸まで歩いて20分位でした。
だから、子どもの頃の原風景としては海も山も両方あります。
海は夏の間しか入れませんでしたけれど、山は年がら年中入っていましたから、親しみの深さはどちらかといえば、山の方に傾きます。
暑いのが苦手な自分の場合、夏の過ごしやすさという点からいうと、暑い夏は涼を求めて標高の高い山の避暑地へゆくのがステイタスでした。
鎌倉の山だって麓の朝晩は涼しく、それは海辺も同様だということを、肌で知っていました。
景色は、地平(水平)の広がりという点でいえば、山は海にはかないません。
一日中見ていても飽きないのはどちらかと問われれば…難しいですね。
海も季節によって、天候によって、時間帯によって表情を著しく変えますが、変化の多彩さでいえば山の方が豊かだと思います。
食べ物は、それはもう、大人になったら海の幸の方に食指が動きます。
こうして考えると、甲乙つけがたいですね。
旅行会社のお客さんでも、ハワイとかタヒチに行く人と、アルプスに行く人は一緒ではなかったと思います。
子どもの頃に、夏の海で泳いでいるとき、波間に見える沖合をゆく船など眺めては童謡の「海」とか「我は海の子」の「行ってみたいなよその国」、「いで大船を乗り出して、我は拾わん海の富」なんて歌詞を口ずさんでいましたから、外国への憧れを育んだのは海だと思います。
のちに大きくなって、まだ学生の海外旅行が一般的でなかったのに、独りで平気な顔をして海外へ旅に出たのも、小さいときに海の近い場所で過ごしたことがあったからというのが大きいと思います。
海岸へ出れば、いつも水平線の向こうを想像していましたから。
これに対して山はどうかといいますと、山もまた「あの山の向こうには何があるのだろう」という想像力ははたらきます。
けれども山の場合、向こうよりも上の方に関心が行くことのほうが、多かったように思います。
つまり、水平方向の海に対して垂直方向へ視点が向かうというか。
たとえば「あの高い山に登ったらどんな風に空や景色が開けるのだろう」というような塩梅です。
のちに哲学や神学に興味をもったのは、子どもの頃から山登りやスキーをしていて、山に親しんでいたことが影響しているように今をもって感じます。
子ども心に、「天のいと高きところ」に少しでも近づいたような感覚がありましたから。
視線や思いが遠く彼方へ広がりをもって向かうのか、果てしなく上方へと向かうのか。
結局は心が人間を超えたものを求めているような気がしてなりません。