四日市宿の続きに入る前に、前回忘れてしまった恒例の広重版画についてご紹介したいと思います。
左上に「四日市 三重川」の字か見えますが、三重川とは三滝川のこと。
つまり現在の三滝橋のことです。
この構図では橋をどちらの岸からながめたものかは定かではありません。
しかし、奥の方に船の帆と家屋根が見えるのを四日市の宿場と考えれば、江戸側から京側へ向かっている旅人二人が描かれ、うち一人は向かい風に笠を飛ばしてしまい、慌てて拾いに駆け戻っているところと読めます。
季節は服装から夏の前後、天候は雨混じりの強い南風が吹いている状況というところでしょうか。
今は埋め立てられて三滝橋から伊勢湾ははるか向こうになってしまいましたが、江戸の昔はこのように海が近くて強風が吹いていたのかもしれません。
さながら江戸時代の湾岸大橋だったのでしょうか。
大橋というにはほど遠いですが、江戸時代の河口に近い橋は、橋脚だけを残してあとはわざと簡素につくり、大雨が降るたびに上部構造は流すにまかせ、また架けなおすこともやっていたみたいです。
笠を飛ばされた旅人の慌てようや、柳の枝が風になびく様子、前をゆく旅人の雨合羽のはためきなど、広重の版画には動きがあるところが面白いです。
四日市宿諏訪神社(34.967995, 136.622475)前からスワマエ商店街のアーケードに入ってゆきます。
東京の日本橋を出てからここまでの間、旧東海道が商店街になっている場所は多々ありました。
品川宿の先、青物横丁とか、神奈川宿と保土ヶ谷宿の間、洪福寺・松原商店街などは、昭和の街にタイムスリップしたようでした。
道路の両側にアーケード状の商店街が連なっていた宿場は、平塚や三島、吉原、江尻(清水)、府中(静岡)、掛川などたくさんありましたが、道全体を屋根で覆うようなアーケードは、この四日市スワマエ商店街がはじめてです。
というか旧東海道で、(時間を区切っているにしろ)車の進入を禁止しているような、アーケード商店街は、ここだけです。
ただ、あちこち街道めぐりしていると、旧道がそのまま屋根ですっぽり覆われたアーケードというのは、所々にあります。
たとえば京から下関へ向かう脇往還の西国街道なら、神戸の元町商店街や、尾道の駅前から東に続くアーケード、広島の本通り商店街など、みな旧街道がそのまま現在の目抜き通りになっているということになります。
DANさんとの旅の最中、スワマエ商店街の中で、機械仕掛けで首の伸びる大入道の山車を発見しました。
四日市には大入道の妖怪伝説があります。
ひとつは、大男が店で仕事させてくれと居候を願い出て、雇ってみると商売は繁盛するが、ある晩主人がその大男の正体を見てしまい、翌朝失踪してしまうというもの。
いまひとつは、狸がろくろ首に化けて悪さをするため、住民がもっと長く伸びる人形を用意して、これを撃退するもの。
ろくろ首は、首がのびるだけのタイプと、首が離れて飛行するタイプがあったと思いますが、四日市の妖怪は前者のようです。
妖怪伝説は自然現象や動物、昆虫がモティーフになっている場合が多いのですが、ことろくろ首にはそれがなく、夢遊病などの病気や、心霊現象がもとになっているのではないかなどといわれています。
首がのびたり飛んだりするだけで、行燈の油をなめる以外は、たとえば長い首でしめあげるなんて危害を加えるわけでもありません(小泉八雲の「怪談」に登場するろくろ首は、そうでもありませんが)から、どことなくユーモラスなのですが、「のっぺらぼう」と同様に、子どもには怖い妖怪でしょう。
商店街はアーケードもそのままに、スワマエからスワ栄商店街に変わり、諏訪神社から250mで広い通りに出ます。
これは中央通りと呼ばれる目抜き通りで、右(西)へ250mゆくと近鉄四日市駅で、左(東)へ750mゆくとJR四日市駅に突き当ります。
現在栄えているのは近鉄線の駅の方ですが、本陣等宿場の中心に近いのはJRの方です。
これは、鉄道で名古屋をはじめどこかへ移動する場合、大半の人が近鉄線を利用するからでしょう。
JR線は、関西本線の四日市~名古屋間ですら単線区間が複数残っています。
快速など優等列車を走らせていて、運賃も特定区間として近鉄線より安いのですが、走っている列車の本数が違います。
ただ、関東へ帰る場合は、きっぷや乗り換えの都合から、旧東海道の旅をつづける際には、JR利用を予定しておく方が便利だと思います。
JR四日市の駅に向き合うように、中央通りの真ん中に稲葉三右衛門の銅像がたっています(34.963229, 136.628127)。
この方は、幕末安政の大地震で壊滅した四日市港の機能を、明治になって回復し、四日市の近代化の基を築いたひとです。
四日市では知らない人はいないとか。
もっとも、築港の際に、明治維新で賊軍となった桑名藩の桑名城を破壊するのに便乗して、その石垣を四日市の堤防に転用し、新政府の露骨な贔屓政策もあって、江戸時代と明治では桑名と四日市の繁栄は逆転したことから、お隣の桑名ではよく思われていないのだとか。
四日市だって、江戸時代は幕府直轄の天領だったのですが、桑名藩の藩主(松平定敬)は明治維新の際最後の函館戦争まで転戦していますからね。
桑名と会津に関して、明治政府は心底憎んでいたようです。
それにしても、地域感情というものは複雑です。
なお、桑名城から持ち去った石でつくった堤防は、潮吹き堤防(34.960506, 136.640747)として、JR四日市駅のさらに東の海辺にある、稲葉翁記念公園(34.960875, 136.637968)から望むことができるそうです。
旧東海道に話を戻します。
中央通りには横断歩道が設置されていません。
(その代わり地下道はあるものの、自転車の押し歩き用スロープはありません)
そこで50m東にある国道1号線の諏訪栄交差点(34.965240,136.622222)を横断します。
交差点を渡ったら西へ50m戻って左折して南下し、旧東海道の旅を続けます。
進学塾の入ったビルが両側に門のようにたっている間の旧東海道をゆくと、中央通りから150m先の右側が、浄土真宗高田派の祟顕寺(そうけんじ 34.963561,136.621100)です。
ここは作家の丹羽文雄先生の実家です。
旧東海道沿いの石柱側面に、生誕の地と彫られています。
親鸞・蓮如両上人の伝記を書いていましたっけ。
瀬戸内寂聴さんとか、新田次郎さんのお師匠さんですね。
小説を書こうという人は、先生の「小説作法」は必読でしょう。
私は例によって読んでいません。
いっぽう、祟顕寺から80mさきの四つ角を右折し、300m西へ行った行き止まりにあるのが、鵜森神社(34.964805,136.616826)です。
周囲は公園になっていますが、ここが戦国時代に浜田城というお城があった場所です。
14世紀の半ばに築城され、百年後の1675年、織田信長の伊勢侵攻によって落城しました。
旧東海道はその先で徐々に進路を西へ向けながら近鉄線の下をくぐり、中央通りを渡ったところから980mで再び左に折れ(34.960585, 136.613776)て南西に進路を変えます。
この辺りまでが、江戸時代の四日市宿でした。
道が折れ曲がったところからさらに280mさきの四つ角手前にあるのが、鈴木薬局です。
創業寛延三年(1750年)って260年前じゃないですか。
無二膏、赤万膏本舗(有)製薬所って、ここで作っていたみたいです。
無二膏とは、京都で売っている古い軟膏です。
たしか切り傷や膿に効果があるとか。
ということは、ここで旅人相手に外用薬を製造・販売していたのでしょう。
説明書きを読むと、長崎で蘭方修行をし、漢方を伝授されて開業とあります。
鈴木薬局のすぐ先の交差点を右折すると、30mで四日市あすなろう鉄道の赤堀駅(34.959213, 136.610429)です。
次回はこの赤堀駅に隣接した交差点から44番目の宿場、石薬師宿へ向かいたいと思います。