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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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鎌倉にある杉原千畝の足跡にブロンプトンをつれて(その1)

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たしか90年代に入ってからだったと思うのですが、「六千人の命のビザ」という本が出て、ドラマ化もされ、杉原千畝氏が急に脚光を浴びたときがありました。
自分はその7、8年前に東欧諸国を巡って、アウシュビッツなどにも行ってユダヤ人迫害の歴史を調べていましたから、氏のことは知っていました。
語学、特にロシア語に堪能で、満鉄から外務省に移った後、その才能ゆえにソビエトから睨まれ、リトアニアのカウナスで総領事をしているときに、本省の訓令を無視してユダヤ人難民に対し大量のビザを発給し、数千人をシベリア・日本経由で逃がした方です。
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第二次世界大戦の勃発時、ソビエトとナチス・ドイツ双方から侵攻されて、ポーランドが消滅したのは有名なお話ですが、そのすぐ後にソビエトはバルト三国にも侵攻し、これを併呑してしまいます。
在東欧ユダヤ人たちは、ヒトラーとスターリン双方から迫害を受ける形になり、戦火を避けて脱出する方法は、シベリア鉄道経由で日本から太平洋を渡るしか道がありませんでした。
日本の外務省は、杉原氏のユダヤ人への無制限なビザ発給は認めず、カウナスを早々に退去するように訓令を発します。
彼は大使館を引き払った後、ホテルから列車で出発する刹那までビザを発給し続け、難民が領事館に押し寄せてから、出発までのおよそひと月強の期間に、記録されているだけでも二千数百枚のビザを発給しました。
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終戦後に帰国すると、省庁の人員整理とともに抗命ということもあって外務省を解雇に近い形で退職させられ、以降は東京PX(進駐軍内の売店)の支配人を皮切りに、職を転々とし、家族を病気で失うなど不遇の時代を過ごしました。
自分がちょうどポーランドのアウシュビッツやチェコのテレジンなど、ホロコーストに関する資料展示で彼に関する記述をみた直後の1985年ごろ、氏がイスラエルからヤド・バシェム賞を受けたニュースに接し、あ、まだご存命だったのだと気がつきました。
その際にびっくりしたのは、戦後数十年経っているにもかかわらず、いまだ外務省が杉原氏を事実上罷免したことについて、何の名誉回復も為されていないという事実でした。
その頃は、イスラエルの氏によって命を救われた人々から、日本の外務省に圧力がかかっていたと記憶しています。
(ご本人の死後に名誉は回復されます)
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ヤド・バシェムとは表彰される場所にある施設の名前で、正確には「諸国民の中の正義の人賞」と呼ぶのですが、ヘブライ語で「カッシードウンモーターラム」(חסיד אומות העולם ←ヘブライ語って右から左へと読みます)といいます。
先日、イスラエル人が杉原千畝の故郷、岐阜県美濃市を訪れていると知って、そんな遠くへ行かなくても、鎌倉近辺に足跡はたくさんあるのにと思いました。
そこで、今回は鎌倉近辺に残る、杉原千畝氏の外務省を辞めたあとに暮らした場所をブロンプトンで巡ってみましょう。
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その前に、都内にある杉原氏の顕彰碑へ。
彼は早稲田大学のOB(在学中に外務省のロシア語留学生に選抜されたため、中退)なので、学内にレリーフがあります。
建立は没後25年ということで2011年の1024日ですから、かなり新しいものです。
なお、早稲田大学の構内は自転車侵入禁止です。
目指すレリーフがあるのは11号館と14号館の間ということですから、一番近い門は第2西門です。
ということで目白通りの西早稲田交差点から、早大西門体育館通り商店街の路地を入ります。
場所が場所だけに、安くお昼を食べられそうな飲食店や古本屋さんが並んでいます。
通りの奥、大学生協裏の駐輪場に自転車を停め、第2西門から入って正面の階段を下ると、レリーフは左手のすぐわかる場所にありました。
「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」
これは、彼の功績が認められるようになってから、ご本人が淡々と語っていた言葉です。
しかし、職を辞する覚悟で、家族や周囲に迷惑が掛かることを承知のうえで、正しいことをするというのは、誰にでもできる事ではないと思います。
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早稲田大学をあとにして、小田急線の新宿駅へ向かいます。
ブロンプトンなら15分位です。
週末であれば、新宿から片瀬江ノ島ゆきの快速急行が毎時3本出ていますので、これを利用します。
新宿から藤沢はJRでゆくと972円もするのに、小田急は586円で済みます。
しかも始発だから座って行けるし。
西早稲田から副都心線と東急東横線を使って横浜へ出て、そこからJRで藤沢までいっても842円で、オールJRよりも安いのです。
湘南新宿ラインが人気のないのもうなずけます。
 
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藤沢の駅で降りたら、江ノ電の線路に沿って南下しましょう。
江ノ電の鵠沼駅西口を目指します。
駅に着いたら出口を背に賀来神社のお社を右手にみながら西へ進みます。
鵠沼駅前郵便局の前を通り、駅から100mほどで左手にカーブミラーのある三叉路に出て、道は西から南へ進路を変えます。
この三叉路のカーブミラーの後ろにある家が、戦後杉原氏の住んだ家です。
ここに家を求めたのは、杉原氏がまだ20代で満州国外交官として駆け出しだったころ、氏の手腕を高く評価した広田弘毅元首相が、戦中に住んでいた場所が鵠沼だったからだそうです。
戦前の1934年、外務大臣だった広田弘毅は、対ソ北満(東清)鉄道譲渡交渉の責任者で、杉原千畝はそのもとで実務官僚としてネゴシエーションにあたっていました。
彼は、老朽化した鉄道インフラの譲渡を高値でふっかけてくるソ連側に、線路の犬釘の腐食具合まで現地調査して反論し、正当な価格にまで引き下げさせたそうです。
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広田弘毅という人は、戦前の政治において軍部の干渉を招いたこと、日中戦争の継続を黙認したかどで、戦後の極東軍事裁判で1946年春に起訴され、1948年秋にはA級戦犯として有罪判決を受け、死刑を宣告されました。
(広田元首相の妻は、夫の起訴に先立って鵠沼の家で自殺)
同年1223日に巣鴨プリズン(現在、池袋のサンシャイン60がある場所)にて、絞首刑に処せられています。
裁判中は弁明を一切せず、判決後に検察側の首席検事ですら疑問を呈した判決で、国中から減刑嘆願の署名が集まったそうです。
死刑になったA級戦犯のなかでは、唯一の文官でした。
杉原千畝が終戦時にブカレストの日本公使館でソ連軍に拘束され、シベリア鉄道と引き揚げ船を乗り継いで帰国したのが19474月で、外務省を依願退職(事実上の解雇)したのが同年6月。
その翌年、元上司で理解者だった広田の処刑を、この鵠沼の家でどんな気持ちで聞いたのでしょう。
当面の職を失った杉原家では、この店舗兼住宅で奥さんが文具店を営みながら、糊口をしのいだという話が残っています。(つづく)
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