さて、お次は晩年に杉原千畝氏が住んだ場所へ行ってみましょう。
鵠沼駅から江ノ電に沿って江の島方面へと向かいます。
途中、日本基督教団の片瀬教会と、先日ミサに出たカトリック片瀬教会の前を通ります。
龍口寺の前から谷間へ入り、腰越へ流れ出る神戸川にそって山の方へ向かいます。
途中聖母訪問会・モンタナ修道院(カトリックの女子修道会)の前を通ります。
これでキリスト教会三軒目。
今日はキリスト教会のあたり日みたいです。
聖母訪問会は1915年、パリ外国宣教会に所属していたアルベルト・ブルトン神父の指導によって創設された、女子修道会です。
神父は23歳で来日し、日本、北米日系移住民、また日本と伝道に生涯を捧げました。
モンタナとは、アメリカの州の名前ではなく、ラテン語で「高地」の意味です。
ルカによる福音書1章に、マリアのエリザベト訪問(聖母訪問)の場面があり、このときに高地を訪ねた(39節)とあることころからきています。
この修道院の教会は、早稲田大学構内にある坪内博士記念演劇博物館や、長野県の安曇野にある碌山美術館を設計した今井兼次氏です。
垣根越しに見ても、白基調のお御堂ですが、形がちょっと変わっていると思います。
なお、修道会ですから関係者以外は入れません。
川沿いの道が尽きたら、バス通りに出て湘南モノレール西鎌倉駅を左に見ながら、さらに緩やかな坂をのぼってゆきます。
赤羽交差点でモノレールの軌条をくぐったら、次の路地を右折し、モノレールと家を一軒隔てて並行する形で坂をのぼります。
もう別の方が住んでいるので、特定はできませんが、この坂の右側、モノレールとの間に晩年の杉原千畝氏は住んでおりました。
1985年、氏はヤド・バシェム賞を受賞して翌年の夏に亡くなるわけですが、それに先立つ1983年、テレビのインタビューを受けたときには、「ビザ発給を拒めば、目の前の人たちがガス室送りになるのを知っていながら、本省の命令に従うわけにはゆかなかった」と、淡々と語っていました。
しかし、彼の晩年はおろか、死後の名誉回復に至ってもまだ、杉原氏はユダヤ人から袖の下をもらってビザを発給したとか、本省の訓令に反した国賊者という批判が、外務省の内部やその支持者たちから浴びせられたといいます。
その当時も今も、人間は生まれてくる場所を選べないのに、もし、自分が彼の立場だったらどうするのか、或いはユダヤ人の立場だったなら、どう考えるのか、なんと想像力に乏しい人たちがこの日本には存在するのかと、腹立たしく感じたことを覚えています。
難民など助けたところで、人口が増えて却って困るばかりだから、援助の手を差し伸べるのは考えものだという人がいますが、自分が創造主にでもなったつもりなのでしょうかね。
さて、晩年の杉原氏宅を後にして、鎌倉山方面へ坂を登ります。
バス通りに出て、鎌倉山バス停前までのぼったら、右折してさらに住宅街を上の方へ。
檑亭(らいてい)というお蕎麦屋さんの前を通り、その先で峠を越えると、道は延々と下り坂となり、大仏切通から藤沢駅方面へとバス通りと八雲神社前信号で交差します。
そのまま市役所通りに入り、鎌倉駅に向かいます。
仲の坂とよばれる緩い坂道をのぼってゆくと、谷戸の奥にトンネルが見えます。
その手前、一向堂というバス停の左側に広がる支谷戸のあたりが、鎌倉幕府の執権であった北条氏の常盤邸跡になります。
今回はキリスト教の話が多いので、ここで親鸞聖人のエピソードを入れておきましょう。
1233年、61歳になっていた聖人は、この地で仏教全経典が正確に写経されているか、照らし合わせ要員として、大勢の僧侶とともにアルバイトのような身分でこの屋敷に来ていました。(一切経校合)
仕事の合間に食事が供され、慣例に従って僧侶たちは袈裟を脱いで魚鳥を食します。
それは、僧侶が殺生戒を破ることへのポーズでした。
食事の最中は一般人の身分で、食事が終わって仕事を再開するときには、また袈裟を着て僧侶に戻るというわけです。
ところが、この席において親鸞聖人一人だけは黒衣を着たまま食事をしていたといいます。
そこを、当時まだ9歳だった北条時頼が通りかかり、聖人に「なぜ、あなただけが法衣を着たまま食事をするのかと問いかけます。
最初は曖昧な態度で返事をしなかった親鸞ですが、時頼が子どもらしい好奇心で重ねて問いかけてくるので、「せめて、袈裟を着たまま食べることによって、魚鳥に功徳を与えたいのです」と答えたといいます。
親鸞聖人は、こうした僧侶たちの間にはびこる偽善に満ちた便法を、もっとも嫌っていたという逸話です。
このエピソードに触れるとき、忘れられない思い出があります。
「私は浄土真宗の門徒です」などと公言する人間が、子どもの教育者に名乗りをあげ、平然と二枚舌を使って嘘をつくのを間近で見たことがあります。
この人は信仰を自慢する割には、歎異抄や教行信証など読んでみようと考えたこともなく、親鸞聖人がどんな人生を生きて念仏門を開いたのか、微塵も興味がないのだろうなと感じながら、こうして方便でもって偽善を行い平然として恥ともしない人が子どもたちの指導者をしていることに、心寒いものを感じました。
さらに驚いたことには、後ろで教唆している人間が教育の長であり、その下で教師をしている人たちが、この行為を見て見ぬふりを決め込んでいたことです。
他人を唆して悪事へ仕向ける人間や、これ幸いと悪乗りする人間は論外ですが、己の欲望や醜い嫉妬心を糊塗して、大人ぶった偽善者面をしながら方便を駆使する人間に対し、頬かむりを決め込んで本気で怒らない人間が、どうして年少の人たちにやさしく対することができるだろうと思ったものです。
私はキリストの弟子だから、自己の原罪に向き合うのが本旨ですが、自利に執着したまま自己に向き合わず、弱者へお為ごかしとばかり偽善をはたらきながら平然と生きている人間には、心の底から腹が立ちます。
もっとも、そういう人間は、早逸に破たんすることを自分自身で経験して知っているので、腹を立てるそぶりはおくびにも出しませんけれどね。
昔「信仰のある人は他人に対して腹を立てないよね」とある人に尋ねたら、「腹が立たないわけではなく、怒りを向けないというのが正直なところ」と答えられたことがあります。
その時は何のことかさっぱり分からなかったのですが、今では理解できます。
他人に対して怒ると同時に、そういう自分をきちんと見つめているのだと。
今は我を忘れて怒りの感情の赴くままに行動する人が目立つ時代ですから、余計にそのことを思いだします。
長谷隧道、新佐助隧道、御成隧道と3つのトンネルを抜けて鎌倉駅へ。
左折して扇ガ谷方面に向かい、鎌倉駅ホーム脇の踏切で横須賀線の踏切を越えたら、八幡宮の前へ出ます。
そこから金沢街道を朝比奈峠方面へと走ります。
滑川にそって東へ向かうわけですが、明石橋あたりまでは、バス通りを走らなくても裏道をゆけます。
そこからは、バス通りを車に抜かれながらのぼってゆきます。
そして目指す鎌倉霊園大刀洗門に到着です。
鎌倉山からここまで45分。
ちょうどお彼岸の時期で道路の混雑具合を考えると、歩いたり、バスに乗ったりしたら何分かかったかわかったものではありません。
親鸞聖人の話を入れて長くなってしまったため、お墓の探訪記は次回にまわしたいと思います。