(十四橋)
旧東海道桑名宿から四日市宿へと向かう途中、富田の立場、現富田小学校前((5.004774, 136.650574))から旅を続けます。
これまで江戸から京へ向かう旅は、当初江戸から藤沢宿へ南下したほかは、南西へ北西へと振れはするものの、基本的に東から西へ向かう旅でした。
佐屋街道の津島付近から、再び南へ向かうことになり、絶えず太陽は進行方向に。
冨田小学校正門前から150m南で十四川(じゅうしがわ)と呼ばれる小さな川を、十四橋(35.003475,136.649877)で渡ります。
旧東海道から下流に向って550m、上流に向かって1,250m、合計1.8㎞に渡って川沿いにソメイヨシノがおよそ800本植えられています。
この桜は大正12年に地元で製網業を営む有力者たちによって植樹されたのがはじまりで、現在は桜の名所として有名になっています。
十四橋からさらに150m南の左(西)側に、門前に忠魂碑の並ぶ薬師寺(35.002590,136.649110)を認めます。
由緒書きには、9世紀の初頭、この地に何をしても治癒しない難病が流行って人々が苦しんでいた最中、弘法大師が東国巡錫(史実では認められず)のおりに足を止め、当地で薬師如来を彫って開眼したところ、たちまち夕立の雲が晴れるが如く、皆の病が平癒したとあります。
するとこのお寺は真言宗なのかと思いきや、門には「南無阿弥陀仏」の文字があるので、浄土系ではないかと思われます。
これは、お寺の歴史が長いとよくあることで、途中様々な事情で宗派が変わっているケースでしょう。
事実、このお寺は1567年に織田方の武将滝川一益の伊勢攻略によって、焼失しています。
その際にご本尊は自ら寺の前の松の木の下に避難したとかで、人々の信仰をいっそう集めたと書かれています。
薬師寺から280mさき、正面に力石が設置されている場所(35.000503, 136.647415)で、旧東海道はクランクしています。
特に表示はありませんが、これは四日市宿の鉤形と思われます。
そこから190m先の右側に茂福(もちぶく)神社の石柱が建っています(34.998743,136.646537)。
これは、14世紀末から15世紀にかけてこの地を治めていた朝倉盈豊(みつとよ)の居城(茂福城)があった場所です。
朝倉氏は越前の朝倉家の縁戚で、北勢四十八家という、この地を治める豪族のひとつでした。
薬師寺のところで前述した滝川一益の伊勢攻略により、謀殺されたと伝えられています。
茂福神社は盈豊の産土神(うぶしながみ)です。
産土神とは、個人の生前から死後までを守護する神のことで、氏神が血縁をもとにしているのに対し、こちらは地縁による信仰となります。
豪族がパッチワークのようにひしめいていたこの地域では、地域共同体の結束が固かったのでしょう。
その先で高架の県道下をくぐると、旧東海道の道幅はやや広くなります。
といっても中央線は無く、一車線の路地には変わりありません。
住宅街だった両側も、工場や倉庫が立ち並ぶようになります。
クランクから780mで米洗(よない)川という水路のような川を渡ります(34.994067,136.643532)。
60mほど下流側のお隣の橋は、こちらとうって変わって車が頻繁に往来していますが、これが国道1号線で、すぐ東側を並行して南下していることが確認できます。
自転車で走ったり、歩いたりしている際、このように川の上下流をそれぞれ観察できることが、車の旅ではできない魅力です。
米洗川を越した辺りから、旧東海道沿いに陶窯が目立つようになります。
これとて登り窯があるわけではなく、小さめの煙突と看板で確認できるきりなので、車を運転していたら見落としてしまうと思われます。
すぐお隣の国道1号線沿いには、陶器を売る店が並んでいるようですが、工場の方は、今となっては裏手になった旧東海道側に面しています。
これは、四日市名産萬古(ばんこ)焼の窯でしょう。
萬古焼はペタライトを原料とし、耐熱性に優れた特徴をもつので、急須、土鍋など、調理器具に重宝されています。
右手に比較的大きな撚糸工場が認められるすぐ手前の左側に、松が一本残っています(34.990525, 136.639246)。
樹齢200年とのことで、「かわらずの松」と名付けられ、大切にされているとのことですが、変わらずの松かと思いきや、この地が「川原須」との地名からこの名がついたとのオチなのでした。
桑名宿の南で員弁川を渡って以来、ずっと国道1号線に並行してきた旧東海道ですが、かわらずの松から740m先で、S字カーブを描くようにして国道1号線に合流します(34.986035, 136.634392)。
ここでお腹が空いたので、珈琲かあさんという名の喫茶店に入って食事をしたことがあるのですが、こんにちはと声を掛けて入った途端、それまでの客とママさんの会話がぴたりとやんでしまいました。
ブロンプトンをつれている場合、畳んだ自転車を脇に置かせてもらっていいですか、と声を掛けることもあるので、よくあることなのですが、言葉の調子でよそ者どころか宇宙人が来たみたいに受け取られてしまうこともあります。
畳まれたブロンプトンに興味を持ってくれれば、まだ会話のしようがあるのですが、そうでない場合、車社会の田舎だと、真昼間でも折りたたみ自転車に乗って颯爽とあらわれる、言葉違いの客は、不審者そのものなのでしょうね。
でも、旧東海道沿いの場合は、歩いている人もふらりと入ってくるはずで、免疫があると思ったのですが、シーンとした店内で気まずいのでした。
合流点の280m先には、小さな石碑が建っています。
国道1号線に出てみて実感するのですが、かの「イチコク」もここまでくると上下2車線、ローカル国道の様相を呈しています。
これはもっと伊勢湾に近い東側に、名四国道と呼ばれる国道23号線が並行しており、こちらが物流のメインストリームになっているからです。
そちらは上下2車線で歩道もついておりますが、両側の大半は防音壁に囲まれており、自転車で走っても面白くないばかりか、マスクでもしない限り健康に良くない印象さえ受ける道なのでした。
しかし、国道1号線沿線も、東京近郊で見かけるような店ばかりで、ここが四日市であるという実感が湧きません。
広い道を走る場合は、やむを得ない場合を除いて左側を走るルールなので、国道1号線に300mさきの金場町交差点(34.983978,136.631997)で国道を渡り、左側歩道をゆきます。
金場町交差点から370m先、左手、多度神社(34.981191, 136.629626)の前で旧道は左手へと分かれます。
100m先で海蔵川の土手に突き当たります。
土手上には今は河川改修で消えてしまった三ツ谷の一里塚跡の碑(34.980321, 136.629116)があります。
2001年に設置された説明版は、2007年になるとかなり薄れており、2013年になると殆ど読めなくなっております。
すぐ上流に架かっている国道1号線の海蔵橋(34.980040, 136.628445)で海蔵川を渡ります。
橋上から下流方向を見ると、火力発電所の煙突が濛々と白煙を立ちのぼらせています。
子どもの頃、四日市市は、熊本、新潟の水俣病、富山のイタイイタイ病と並んで四大公害病のひとつ、四日市ぜんそくで有名でした。
石油化学コンビナートの排出する亜硫酸ガスによって引き起こされる、慢性閉そく性肺疾患で、喘息の発作を引き起こし、やがては肺気腫や心臓発作などを併発して死に至る病です。
被害も甚大で、子どもの死亡や乳幼児の死亡率の高さがクローズアップされていました。
当時は小児喘息というと、親の過保護によるぜいたく病みたいな認識を持っている人もたくさんいたのですが、ここの喘息はそんな生易しいものではありませんでした。
市内のある小学校では、乾布摩擦や重曹水でのうがいなどが義務付けられていたそうです。
いまこうして青い空を見ると、あの頃テレビで盛んに取り上げられていた、灰色に濁った空は幻のように思えます。
旧東海道の宿場で、現代の工業地帯と言えば、川崎宿とここ四日市宿になるのですが、どちらもその奥に古くからの大都市を抱えた、湾の中ほどの西側沿岸に、石油化学コンビナートが立ち並んでいるのは、やはり地政学的な要因が働いているのだろうと思いました。
次回は海蔵橋から四日市宿の中へと入ってゆきます。
旧東海道ルート図(弥富駅入口~(近鉄)四日市駅入口(佐屋街道3/3)