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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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冬の京都1泊2日にブロンプトンをつれて(その10 河原町教会)

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今回は文章が長くなってしまったために、2回に分けます。
写真がずれていますが、連続しますのでご容赦を。
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日本基督教団の北白川教会を後にして、西方向へ坂道をくだります。
志賀越道を通って吉田山緑地を迂回し、工学部の裏手から京都大学に入ります。
京大の本部構内は、オートバイは走行禁止ですが自転車は自由に走れます。
ただし、ひとも多いので徐行は必須です。
やはり学問の匂いのするところは良いですね。
大学の中には自転車での通り抜けを禁止している学校もありますが、国公立大学は自由に出入りできるところが多くて、ゆるいお散歩にはもってこいです。
文学部の前を通り、大正3年(1914年)に建築された文学部陳列館へ。
本当は総合博物館を見学し、本郷の東京大学みたいに学食に寄ったりすると面白いのでしょうが、今日はもう帰りの新幹線の時間が迫っているので、通り抜けだけです。
 
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東一条通に出て西に向かうと、右手に地塩寮の札のかかった古い建物が目に入ります。
実際の寮はひとつ後ろの建物で、この建物は京都YMCA会館という、こちらも大正2年建築の古株です。
こちらへ来ずに、構内を南へ向かい、まるで地方温泉の自炊部みたいな吉田寮を見てもよかったのですが、今回はパスしました。
東一条交番から再び南へ向かったのですが、京都大学のどこかの建物が新築工事中で、トラックが多くて辟易しました。
白川放水路を渡り、新東洞院通りを南下して寺街を抜けます。
この通りは新柳馬場通りを経て三条通りから南は花見小路通りになり、建仁寺まで続きます。
三条通りに出たら右折して大橋を渡り、河原町通り沿いにあるカトリック河原町教会へ。
通りから少し引っ込んでお隣のビルに隠れがちですが、立派なお御堂です。
ここは司教さんのいる司教座聖堂なのです。
 
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(文学部陳列館)

守護聖人は、あのフランシスコ・ザビエル。
彼、バスク人なのです。
最近本で読んで知ったのですが、バスク語って他の欧米系言語と共通点が乏しく、周囲のフランス人やスペイン人には習得困難なのだとか。
ところが、日本語とは共通点が多いらしいのです。
1934年に羅和辞典を編纂した、同じくバスク出身のソーヴール・カンドウ神父(1897-1955)によれば、バスク語は日本語と同じく言語学上の膠着語に属し、文法の語順が全く同じであるばかりでなく、「絶えず」「考えず」「止むことなき」「飲むこと」とか、「持ってくる」「持ってゆく」「置いてまいりました」「見てきました」という表現上の構造を有し、対話の相手によって「そうだ」「そうです」「そうであります」「さようでございます」のように語尾を変化させるところまで同じなのだそうです。
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(京都YMCA会館)
 
日本へ来る前にマレー、インド、中国などで語学を学んだとき、カンドウ神父は全く聞き取れなかったのに、日本語だけは当初からどうも外国語には聞こえず、故郷の方言のような気がして、そのことを当時の同じバスク出身の司教に話したら、彼も横浜に到着して迎えの車の運転手が日本語で「荷物はこればっかりだ」と話すのを聴いて、意味も発音も全く同じなのでびっくりしたということを話してくれたといいます。
日本滞在のバスク人には、あるある小話がたくさんありそうですね。
俄然バスク地方へ行ってタクシーの運ちゃんにブロンプトンを指し示し、日本語で「荷物はこればっかりだ」(バスク語の断定も「ダ」で終わるそうで、ネットで翻訳すると、語尾は本当に“bakarra da”になりました)と話しかけてみたくなりました。
この話は、郭南燕著『ザビエルの夢を紡ぐ―近代宣教師たちの日本語文学』(平凡社刊)の最初の章に出ています。
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さて、河原町教会の建物は、スイス人司祭の設計で、現在の聖堂は1967年の建築です。
合掌造りのような形式の屋根は、神社の様式を取り入れたのだとか。
聖堂入り口の左側には、殉教者の間があり、京都の大殉教のエッチング画をみることができます。
大殉教っていうと、長崎の26聖人(16229月の殉教)が有名ですが、ここ京都でも1619年に52名のキリシタンが火刑に処せられて命を落としています。
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(三条大橋―旧東海道の旅の終焉まで出すつもりなかったのに…)
 
京都所司代の板倉勝重は、キリシタンには同情的で1612421日に幕府直轄地への禁教令が布告された後も、半ば黙認の形で京の街の何ヵ所かに分散されたダイウス町(天主町)の住人を黙認していました。
しかし、二代将軍徳川秀忠が1619年に改めて禁教令を出すと、やむを得ずキリシタンを捕縛して入牢させます。
それでも勝重は信徒を少しずつ釈放することで時間稼ぎしましたが、まだ信徒が存在する事実に業を煮やした秀忠が直々に火刑を命じたため、いったん釈放した信徒を再び逮捕、同年105日に全員に死刑を宣告し、翌6日、六条河原に二十七本の十字架を立てて火あぶりの刑に処しました。
 
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(河原町三条にあるカトリック河原町教会)

えっ?なんで52人処刑するのに十字架が27本なのかって。
ああ、それはですね、52人のうち11人は子どもで、最も悲劇的な例として1本の十字架に夫婦とその3人の子ども計5人が縛り付けられるなど、家族が一本の十字架で燓刑に処せられたからですよ。
最年少の子どもは2歳で3歳の幼児も2人いました。
この処刑方法について、秀忠が事細かに指示し、自らも上洛して見物したそうですが、信徒たちは喜んで家族一緒の殉教を受け入れたといいます。
どうも二代将軍徳川秀忠は温厚なイメージがあったのですが、この事件は家康の死後のことですから、幕府の基礎を固める時期にキリシタンに対しては一罰百戒の態度で臨んだ節があります。
彼は武士がキリシタンになることで、幕府の脅威になると恐れていたようです。
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ただ、一般の見物人も含め、抵抗もせずに幼い子どもをしっかりと抱いたままイエスの御名を唱えながら、従容として息絶えてゆく家族をみて、理屈を通り越した底知れぬ恐怖を感じたと思うのです。
なお、鴨川の左岸、正面橋近くの川端通りには、元和キリシタン殉教の地碑もあるみたいですから、こんど天主堂跡とセットで京都キリシタン遺跡巡りをやってみたいと思います。
あれあれ、三弘法がなんでこんなことになったのでしょう。
これまで何度も京都を訪れているのに、キリスト教とかカトリックなんて切り口で京を巡ろうとしたことなど、一度もなかったことに改めて気付きました。
京都とカトリシズムをつなげてくれた山田先生の話題は次回に。(つづく)

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