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Channel: 旅はブロンプトンをつれて
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冬の京都1泊2日にブロンプトンをつれて(その9 北白川教会)

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京都の三弘法のうち、神光院、仁和寺をまわり、東寺をやめて北白川に向かい、鴨川まできたところで話が途切れていました。
なぜ北白川に向かうことになったかというと、日本基督教団の北白川教会へ行ってみたかったからです。
あれ、カトリックじゃなくてプロテスタントの方の?と思うかもしれませんが、その教会で、アウグスティヌスについて何か話してくれと頼まれた京大の山田晶先生が、昭和484月から12月にかけて6回講演を行ったのです。
そこで収録された音声からテープ起こしが行われ、昭和54年にキリスト教雑誌の「共助」に掲載され、それを話者の山田先生が再構成して本にしたのが「アウグスティヌス講話」(講談社学術文庫)です。
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(出雲路橋から鴨川上流を望む)

わたしはアウグスティヌス自身の著作を読む以前に、この本を入手して読んでいたのですが、そのときは「へぇ、そんなものかな」くらいで大した感想を持ちませんでした。
ところが、ある機会があって山田先生の訳した「告白」を丁寧に読んで衝撃を受けてから、もう一度この本を読み返したときには、なんて濃い内容の話だったのだ、と深く感じ入りました。
同じ本でも、ベースの見方が変化していると、こうも感想がひっくり返るのかと驚いたものです。
講演を頼んだ方はその時点で京都大学の教授ですし、講義という形でお願いしたようですが、実際は少人数の集まりで、まさに「講話」と呼ぶにふさわしいささやかな会だったようです。
だから、京都に行く機会があったらぜひ、舞台となった北白川教会を訪ねてみようと思ったのです。
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(叡山電鉄本線)
 
たとえば、「神の憩い」と題された最終話のなかで、山田先生は以下のような内容を話しています。
曜日の話題から日曜が安息日とされている聖書の創世記の話に触れ、現代の人々は、この休息のときを如何に有意義に埋めるのかについて躍起になっているけれども、「われわれの一人一人が、自分の心の中に神の憩いの空間を持って、この騒がしい世間の中に住む」ことで、「神の創造の背後の在り、その働きを包んでいる、いいようもなく深い、底知れない神の憩いに触れ」ること実践すれば、それはキリスト者として私たちが具体的にできる「社会的な寄与」にあるのではないかと。
そのひとつが、日曜日に教会の礼拝やミサに出席し、祈りをささげることの意義ではないかと。
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(ヒッポのアウグスティヌスのファンには、たまらない本だと思います)
 
私は本当に信仰を持っている人、とくにクリスチャンの人たちは、宗派を問わず、心の中にどこかしら「静謐な場所」を持っている印象を受けるのです。
それは、柔和で寛容なふりをして、本心を隠しているという人とは全く違います。
以前ご紹介した三浦綾子の「塩狩峠」に出てきた主人公の描写にもありました。
彼が犠牲の死を遂げたとき、親友はかなり前から主人公がそんな形で人生を閉じるのではないかと心のどこかで予感していて、事故の報に激しい衝撃を受けながらも心の一点だけは全く動じない、静かな場所があったと小説をしていわしめています。
そして、こうした憩いが日常にあるからこそ、他の人や仕事に対するエネルギーを充溢させることができるのではないかと山田先生は語るのです。
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同じことは場所にもいえると話が続きます。
たとえば、京都という空間は駅を降りた瞬間から、他の街にはないシーンとした静けさを感じることができる。
それは郊外など田園の静けさや、山の静けさとも違う。
山田先生の考えでは、京都の街にはお寺の境内とか、お社の森とか、鴨の河原とか、長い年月をかけて皆が大切に守ってきた空間があり、そういう空間が京都という街の全体的な静けさを保っているのではないかというのです。
(昭和48年当時と今とでは、だいぶ事情が変わってきているかもしれませんが)
これに対して、いかにもな閑静さを演出した、デベロッパーが開発した住宅街ってあるじゃないですか。
ああいったわざとらしい静寂の演出は、さも自分には信仰がありますよという顔をしておいて、その実こころの中は煮えたぎったるつぼ状態の人みたいで不気味です。
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(カトリック北白川教会)
 
東京の街中と鎌倉を対比させたら、同じようなことがいえるのではないでしょうか。
私は週に数日新宿で仕事をしていますが、すぐそばに大きな神社があります。
お隣は歌舞伎町という日本一の歓楽街を抱えているわけですが、ビルに囲まれたその神社の空間だけは、耳に聞こえる騒音とは別の静けさが漂っています。
ただ、一歩神社の境内から出ると、もうその存在が掻き消されてしまうくらい、周囲の騒音がひどいのです。
別な日に鎌倉のお寺に早朝に行くと、時計の秒針の音が大きく聞こえるくらいの静寂が漂っています。
それは市内にある親戚の家に行っても同じです。
しかし、その静寂は鎌倉や北鎌倉の駅を降りた瞬間に感じられる、鎌倉全体を包んでいる静けさの一部のような気がするのです。
それは、「何々の小京都」や本家本元の「京都」に感じる静けさとは、種類は同じながら、鎌倉特有の湿度を感じる点で、ちょっとだけ異なっています。
また、新宿三丁目の駅を降りたときに、すぐそばにある花園神社の静けさを感じられないのとは、著しく異なっています。
新宿三丁目駅の場合、同じ地下でつながっている複数の有名百貨店の雰囲気は漂ってくるのですが、それは神仏の静けさとは縁遠いものに感じられます。
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(人情軒、じゃなかった人情研)
 
カトリックのミサや、プロテスタントの礼拝だけでなく、お寺へ行ってお経やお念仏、ご詠歌を唱和したりする習慣がある人たち、毎朝神社を参拝してから出勤する人、イスラムの人たちみたいに日の決まった時間に礼拝をおこなう人たちには、この人間の存在を越えたところにあるものの静けさと直結しやすいのではないでしょうか。
この科学万能の時代に祈りやまじないなど愚かの極みだと馬鹿にする御仁もいますが、結局その科学とやらに振り回されているとしたら、それこそ人間の浅知恵丸出しな気がします。
それだけではないですが、私はこのことが体感できるようになってから、日曜はできるだけ教会に足を運ぶようになりましたし、平日でも一日に一度は祈る習慣がつき、カトリック教会の前を素通りすることもなくなりました。
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(あれ?教会はどこでしょう)

特定の宗教をもっていない人でも、観光で訪れた神社で参拝をする際には、なにかしらの「静けき空気」を感じますよね。
祈る習慣がある人は偉いとか、何かご利益があるとか、そういう話ではないですよ。
心の内に静かな場所を持つのも、喧騒の中に首までどっぷり浸かり続けて生きるのも、その人次第ですから。
ただ、旅に出たときくらい、街中の喧騒やテレビの騒音から距離を置いて、心に静けさを取り戻すのはどうかなと、そういう話です。
私は旅先で朝起きた途端にテレビのスイッチをひねられると、勘弁してほしくなります。
民放の情報番組なんか、聞きたくもない政治談議や経済解説を口角から泡を飛ばさぬばかりにがなりたて、窓の外に広がる長閑な景色と完全にミスマッチです。
最近、あんな風に息があがっちゃっているひとが、たくさん見受けられるようになって、ますますその思いを強くしています。
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(表通りからみると、あの建物で間違いなさそうですが)
 
あれ、静けさの話が脱線してしまいました。
鴨川にかかる出雲路橋を渡り、東鞍馬口通に入ります。
下賀茂神社の裏手を抜けて、人道橋になっている蓼倉橋を渡り、川端通りを渡って旧道に出会ったら右折し南へ向かいます。
御䕃通りに出たら左折して再び東へ。
叡山電鉄本線の踏切を渡った先に、「周縁化された人たちに神(ヤハウエ)の国来ている」って書かれたメッセージの貼ってある建物を見かけたのですが、どういう意味だろう。
いま「神の国」を読んでいるだけに、立ち止まって考え込んでしまいました。
右手に京都大学をみとめながらカトリック北白川教会の前を通り過ぎ、白川疏水を渡ったら右折して南方向へ。
目指す北白川今出川交差点はもうすぐです。
と、いきなり住宅街の中で京都大学人文科学研究所付属の、東アジア人文情報学研究センターの建物に出くわしました。
東畑謙三設計で1930年に建てられた、スパニッシュ風の外観とは裏腹に、東洋学や、漢字の管理システム研究を行っているみたいです。
名前を略して「人情研」って呼ぶらしいですが、ますます建物とかい離しているような気が…。
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(とても教会の玄関にはみえません)
 
そしてやってきました日本基督教団北白川教会、って看板はかかっているけれど、それは塀の向こうの家の二階で、どこが教会なのかさっぱり分かりません。
教会であれば、よく屋根の上に十字架がたっていますが、あれが全く見当たらないうえに、住宅しかなく、およそ礼拝施設のような建物はありません。
きょろきょろ見回したら、どう見ても住宅にしか見えない引き戸の玄関脇に、「日本基督教団北白川教会」という木札がかかっているのを発見しました。
あれ、プロテスタントの教会って、入口に「どなたでもお入りください」って書いてあるイメージが強かったのですが、引き戸に呼び鈴ってこれは敷居が高いです。
礼拝時間でもないのによそ者が入ってゆくのも気が引けるので、外から眺めるだけにして引き揚げました。
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これから京都駅の方へ戻るわけですが、三弘法改め山田晶先生の足跡を訪ねてになっているので、京都大学文学部の前を通り抜け、京都のドュオーモ(Duomo=イタリア語でカトリックの大聖堂のこと)であるカトリック河原町教会に立ち寄って帰ろうと思います。

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