最近、宗教と教育についてテーマを絞って読書しているため、あまりほかのジャンルの本を読めないのですが、毎年この時期になると、何か戦争に因んだものを意識的に読むようにしています。
今年は春先に見たJ.オダネルの写真「焼き場に立つ少年」のニュースに触れた(https://blogs.yahoo.co.jp/brobura/40950336.html)こともあって、今夏は表題の本を選びました。
本文だけで560ページにならんとする分厚い本なので、まだ半分しか読んでいないのですが、最後まで読み切ってから感想を書くと、前半部分を忘れてしまいそうなので、書いておこうと思います。
著者は1987年から1995年の間、ワシントンDCにあってスミソニアン協会の運営する、国立航空宇宙博物館(一般には「スミソニアン博物館」と呼ばれます)の館長だったマーチン・ハーウィット(Martin Harwit)博士で、原題は“An Exhibit Denied:Lobbying the History of Enola Gay”(直訳すると「拒絶された展示-エノラ・ゲイの歴史をめぐるロビー活動」になります)といいます。
博士の専門は天体物理学で、原爆のメカニズムや歴史は専門外、さらに第二次世界大戦後にチェコから移民として合衆国にやってきたと紹介されています。
表題からも分かる通り、この本は1995年におこったB29爆撃機、エノラ・ゲイ号(1945年8月に広島に原爆を投下し、長崎投下時も天候観測機として作戦に参加した機体)の博物館展示騒動をめぐるお話です。
エノラ・ゲイとは、機長であり、この騒動にもかかわるポール・ティベッツ大佐(当時=のち准将)のお母さんの結婚前の名前です。
彼は幼い時に力になってくれた母親の名前を愛機につけたのだとか。
本を読むまで知らなかったのですが、スミソニアン学術協会とは、イギリス人、ジェームス・スミソン(1765-1829)が19世紀の中ごろに遺産を委託基金としてつくった、傘下に19もの博物館群を運営する教育研究機関で、国立航空宇宙博物館はその前身の国立航空博物館発足時から、協会によって設立・運営されていたひとつなのでした。
従って、スミソン本人の遺志である、博物館の任務(下記)に忠実であろうとしてきたそうです。
『わが国の航空の発展を永く記憶にとどめ、歴史的に興味深くまた意味のある航空機器を収集・保存・展示し、航空の発展に関係のある科学的機器ならびにデータの保存に努め、航空の歴史を研究するための教育的資料を提供する』
館長をはじめ、集まった学芸員たちは、この宗旨に沿って常設展ならびに企画展を行ってきたのでした。
エノラ・ゲイ号の展示にあたっては、修復に苦労はあったものの、さすがスミソニアン博物館、膨大な資料にあたり細かいことまで調べ上げています。
たとえば、マンハッタン(原子爆弾の製造・量産)計画の端緒となったアインシュタイン博士署名のローズヴェルト大統領あての手紙は、ハンガリーからの亡命ユダヤ系物理学者、レオ・シラードが起草していたこと(https://blogs.yahoo.co.jp/brobura/39389135.html)や、前大統領の病死により突然計画を引き継ぐことになったトルーマンは、就任直後まで原爆計画のことを何も知らされておらず、日本への無警告攻撃に同意はしたものの、2発目が投下された直後に作戦の中止を命じていたこと。
そして、トルーマン大統領は公式にはともかく、個人的には原爆投下を承認したことをかなり後悔していたこと、さらに当時のスチムソン陸軍長官は、その慧眼で戦後に核兵器が世界をどう変えてゆくかを見通していたこと等々、文献だけではなく私信や覚書、記録原簿まで目を通さないことわからないようなことまでをきちんと伝えるべく準備しています。
また、広島や長崎にも足を運んで、市長や被爆者たちの想いも聞き取りをおこなっています。
その結果、「いまや私たちの状況は、不注意にせよ、故意にせよ、地球の全住民を絶滅させることはないにしても、少なくともきわめて原始的な状態に逆戻りさせてしまう危険性をはらんでいる。
戦争を、兵士の男らしさを証明し、帰郷して美しい乙女に求婚する英雄物語にしてはならないと思う。
いま戦士としてそのような戦争を生き延びたとしても、帰郷したときには美しい乙女は灰燼に帰しているだろう」という「人は戦争で死ぬ」事実を、常設展示とは対照的に、子どもたちにはっきりと認識させねばならないと、館長である著者は考えるようになるのです。
当初は専任の学芸員も含め、楽観的に考えていたようです。
前半には盛んに「バランス」という言葉が登場しますが、戦略爆撃の戦術的な意義、当時の米国がおかれた状況、そして原爆の投下によって戦争が終わったという事実と、その原爆によって人々がいかなる被害を被ったのか、戦後に核はどう拡散していったのか、冷静な数字で事実を示せば、第二次世界大戦終結50周年にあたる1995年にエノラ・ゲイを特別に展示することは、ひとつの区切りとして意義深いイベントになる、そんな風に考えていたようです。
ただ、上述の通り、彼らは原子爆弾が落とされた結果もたらされた被害と、それによって創出された核に怯える戦後世界のことは、必ず展示しなければならないと考えていました。
それを見て、現在の世界を来館者に自分自身で考えてもらいたいと。
ところが、最初の企画書が書きあがったころから、どんどん雲ゆきが怪しくなります。
米国の退役軍人たちからは、自分たちの努力と支払った犠牲が無視されていると批判され、日本側からは資料(被爆者の遺品等)は、戦争の結果を誇るような展示なら貸し出せないといわれ、アメリカ国内にもあの飛行機は反核のシンボルにしようという市民団体がいて、館長をはじめ企画書を書いた担当の学芸員たちは、企画展の名前をつけるところから板ばさみに苦しみます。
当初はどちらも、「対立する相手方の話を鵜呑みにするな」と博物館側に意見していたようです。
それがだんだんと展示反対派(空軍協会を主体とした退役軍人の集まり)の側の声が大きくなってゆきます。
よくいわれる、「原爆投下によって本土決戦を回避したのだから、100万人の命が救われた」という退役軍人たちの言い分も、最初は5万~3万(日本上陸作戦=オリンピック(九州侵攻)・コロネット(関東上陸)の2段階作戦で、現場指揮官が見積もった数字)が、参謀本部では50万になり、いつのまにか「日本人をも含む幾百万」に膨らんでゆく様子を具体的に記しています。
いくら博物館側が事実の死者数と推定の死者数を並べたところで、歴史学の観点からは比較にならないといっても聞き分けてもらえません。
日本軍の中国大陸及びアジアにおける侵略行為、そして我々がそれをやめさせるために支払った犠牲に関しては企画書の僅かなページしか割いていないのに、原爆による犠牲者にはこんなに膨大な写真や記述を載せていると責められ、そもそも戦闘員の死者数と民間人の死者数を例示しても「バランス」をとったことにならないと言っても、企画の結論が誘導的だと反論されます。
最後は、原爆による犠牲者のセクションをすべて削除しろと迫り、「そんなことをしたら日本との国際問題になる」と反論する博物館側に、「構うものか」というところまで対立してしまいます。
退役軍人たちは、最初は自分たちの意に沿うよう、展示を改訂させることに取り組むものの、それが叶わぬと知るや、あらゆる手段を講じて博物館側の企画展を潰しにかかります。
米国のロビー活動ってもっと正々堂々としたものかと思っていたのですが、その内容たるやデマも百回流せば真実になるというやり方で、裏工作をする、博物館ボランティアを手先に使う、協力をするふりをしながらサボタージュする、通常業務に支障をきたすほどの抗議の手紙を博物館へ送り付けるなど、著者が博物館サイドの人間だということを差し引いても、卑劣な手を使ったみたいです。
でも、自分たちが利益を得るためなら、平気で嘘をついて人を騙し、偽の情報を流して周囲をミスリードする人たちなら、現代の日本にも身近にたくさんいます。
そういう人たちが気の毒だと感じるのは、自分たちは正義の執行者を気取っているつもりなのかもしれないけれど、実際にやっていることは不義も甚だしいということを自身で気が付いていない点です。
気づいていたとしても、欲に目がくらんでがんじがらめになっている人もいます。
その欲とは、金銭や財産のような欲求だけではなく、自分のしてきたことは正しかったと認めてほしい、名誉欲も含まれます。
だから結局何の得るところもなく、周囲を疑惑や分裂に巻き込む荒らし行為をしておきながら、何の反省もないゆえにまた別のところで同じことを繰り返すわけです。
だんだんと周囲から距離を置かれるようになっていっても、いまさら自分が間違っていたとは言えず、自分は正しいという固陋な考えからいつまでたっても抜けません。
死ぬまでやるのは本人の勝手ですが、心ある人間は離れますよね。
この本に登場する退役軍人たちやその団体の姿は、決してひと事には思えませんでした。
退役軍人たちの攻撃対象となった、博物館の館長をはじめ学芸員の人たちは日本の肩を持ったのかと思われそうですが、そんなことはありません。
それは館長が企画展示を潰しにかかる団体誌に反論した手紙の表現でもよくわかります。
「爆投下の結果、破壊がもたらされたことは事実である。
だからといって、合衆国は第2次世界大戦を終結させるために原子爆弾を使用したことを謝罪すべきであろうか?
もちろん、否である!
われわれは地上で死んだ人々に同情を寄せるべきであろうか?
人間として、そうすべきであると私は思う。
原爆の投下に誇りを抱くべきであろうか?
これは難しい問題だ。
恐るべき犠牲をともなう戦争に終止符を打つ方策を見出したことに、誇りを抱くべきであろうか?
然りである。
破壊の程度に誇りを抱くべきであろうか?
私にはできない。
日本人、特に被爆者には受けいれられない心情かもしれませんが、学者としての矜持をもった「バランス」が良くわかります。
原爆の投下に誇りを抱きながら、その犠牲者を悼むなんて、並大抵の神経ではできません。
不思議だったのは、企画展を7年も前に、エノラ・ゲイの修復に協力を依頼したときに著者が面会した、ティベッツ准将をはじめ、広島、長崎に原爆を投下し、その光景を上空から眺めた元軍人たちは、冷静に「誇るつもりはない。ただ事実を提示してくれればそれでよい」と話していたところです。
「あの偉業を現代の価値で裁き、汚すのは絶対に許されないことだ」と言っているのは、実際に都市爆撃に参加して煮えたタールのようになった街並みを上空から眺め、或いは人の焼ける臭いが機内にまで入ってきた事実を経験したことのない元軍人たちばかり。
彼らにしてみれば、事実を提示しただけで、自分たちの行った行為の結果を突き付けられ、責めを負わされるような気持ちになるから、過剰に反対したのだと思います。
いまダーク・ツーリズムなるものが流行っているそうですが、私たち日本人がハワイに旅行に行く際、どれだけの人がアリゾナ記念館に足を運ぶでしょうか。
日本が行った都市爆撃について調べる為に、重慶抗戦遺址博物館へ行く人がどれくらいいるでしょうか。
半分まで読んで、博物館に抗議する退役軍人も、被爆者や反核の人たちも、足りないのは相手方の立場にたってものを考えてみるということではないかと思いました。
学生時代に訪れたアウシュビッツでは、見学ツアーに参加した人は最後に、あなたはこれらの展示を加害者、被害者、どちらの立場に立ってご覧になりましたか?と質問されるそうです。
どちらに立つかは大した問題ではなく、人間、加害する側にも、被害される側にもなり得るということに想像を働かせることの方が大事ではないかなと私は思いました。
半分まで読んで、まだ博物館と退役軍人団体の争いは先鋭化してゆくようなので、最後まで読んだらまた感想を書こうと思います。
ちょっと空想したのですが、たとえば国立の歴史民俗博物館あたりが、朝鮮の植民地化や、満州国の建国からアジアへの資源獲得進出、昭和天皇の戦争責任について企画展を開いたらどうなるのでしょうね。
純粋に学術的な展示を行おうとしても、やはり何らかの制限が入るのでしょうか。
今度博物館に行ったら、内容が何であれ、展示者側の意図やメッセージをよく考えてみたいなと思った次第です。