前回、冬の京都のブロンプトン散歩に出てきた言葉を説明します。
施餓鬼会(せがきえ)とか、施餓鬼供養とか、どこかで聞いたような言葉ではありましたが、お寺の手伝いをするまで、その意味を考えたことはありませんでした。
「こんどおせがきをやるから…」と言われて、色紙に何か書いてもらうのか(それは寄せ書き)と勘違いしたくらいですから。
字から推測すると、餓鬼にお布施をするのかなと推測はできます。
(漢字文化ってこういうときに便利ですよね。
英語でも接頭語や接尾語で推量する方法があります)
私がお手伝いするお寺では、お盆の時期に行いますが、ほかにお彼岸などにあわせておこなうお寺もあるそうです。
お施餓鬼には以下のようないわれがあります。
(今回はお寺の花を中心に写真を添えます)
釈尊の一番弟子である阿難(あなん)尊者のお話です。
「あなん」と呼ばないで、「アーナンダ」といえば、最近のニュースを観ている人は別の人を思い浮かべるかもしれませんが、お釈迦様の弟子の中では有名な方です。
彼が夜遅くまで学修していると、傍らに餓鬼(仏教でいう輪廻転生の六道のうち、餓鬼道に生まれたもの)があらわれて座り、「おまえは3日の後に死に、餓鬼道に落ちて私と同じような姿になるだろう」といいます。
驚いた阿難が、「どうしたらそのような苦からのがれられますか」と問い返すと、「無数のバラモンにお供物をそなろ。そうすれば、寿命は延び、天上に生まれ変わることが出来る」と餓鬼が答えます。
困惑した阿難はお釈迦さまにどうしたらよいか相談します。
すると、お釈迦さまは限りない功徳があり、すぐれた妙力を備える陀羅尼(=呪文)を示し、「これを唱えながら餓鬼に布施をしなさい。そうすれば、わずかな食べ物でもたくさんの食物になり、無数の餓鬼を救い、また無数のバラモンへの心のこもったお布施となるだろう」と教えました。
(イワタバコの花)呪文を唱えるだけで、そんな都合のよいことが起きるわけがないと思いますよね。
旧約聖書の出エジプト記には、モーセの祈りを聞き届けて、神がマナとよばれる食物を飢天から降らせ、飢えた人々を救う場面がありますが、あれを思い出しました。
でも、飽食といわれる現代にも通じる話かなと、私は思います。
この歳になって、胃腸の働きは弱っているのに、夜中に無性にお腹が空くことはありませんか。
お腹一杯のはずなのに、夜中にテレビを見ていて、食べ物のcmが余りに美味しそうなので、コンビニに走る行為を、食物テロにやられたって表現した人もいましたよね。
そんなとき、テレビを消して、陀羅尼や祈りを唱えると、急に冷静になって静かに床に就いたという経験が私にはあります。
きっと、身体が欲していたのではなく、飢えた魂が渇望していたのだと思います。
だから、呪文に何の効果があると馬鹿にする前に、まずやってみて、それから判断することが大切なのではないかと思うのです。
(紫陽花。赤は弱アルカリ性の土壌に咲くといいます)施餓鬼とは別に、盂蘭盆会にもいわれがあります。
今度は阿難とは別のお弟子、目連尊者のお話です。
彼の名前は原語では「モッガラーナ」とか「マウドゥガリヤーヤナ」といいます。
十大弟子の中で神通第一と呼ばれる彼が、その神通力で亡き母を捜すと、彼女は餓鬼道に落ちていました。
哀れに思った目連が、母に食物や水を差しだしても、そこは餓鬼道ゆえに、与えたものがたちまち火になって彼女を救うことができません。
やはりお釈迦さまに相談すると、「おまえの母が餓鬼道に落ちたのは、わが子への愛情があまりにも自己中心的になってしまった罪過によるものだ」と諭し、多くの出家者による救済の法を示したそうです。
これが、先祖供養の施餓鬼会に転化したといいます。
(オランダカイウ?)今でいう毒親の話まで出てきてしまい、なんだか笑えませんよね。
とにかく、今を生きる私たちが施しをすることや、追善供養することで、ご先祖様への考順供養をするということなのですが、この機会に欲に染まった自分自身を内省して、慎ましやかに生きるというのはどういうことなのか、考えてみましょうということではないかと思います。
お盆に里帰りして、気を遣いすぎて疲れてしまうという話をききますが、ご先祖さまを想い、「静かに黙想しているのだから邪魔しないで欲しい」と丁寧に断ってみてはいかがでしょうか。
或いはこれもお供えの一種だと思って、陰で陀羅尼を唱えながら、会話に飢えているご老人の話を、ひたすら黙って聞いてあげるとか。
お盆にそんなことしている家族や親せき、周りに全然いませんでしたけれどね。
(早咲きのコスモス)